イワナを釣るためには犠牲が必要だ。
私は犠牲が足りなかった。安物ではだめだ。ちゃんとしたウェーダーを買わなくてはいけない。以前買ったウェーダーはシューズの一体型であり、ずっと水中で立っているブラックバスなどの釣りではよいが、動きまわる渓流釣りではブーツとウェーダーの接続部分が破れてしまってダメだった。「ストッキングウェーダー」という足元が防水ソックスになっているウェーダーを着て、その上にウェーディングシューズを履く。確かに大野の釣り人は全員それだった。
ウェーダーはネットで販売しているが、合うサイズがわからない。ウェーディングシューズは防水の分厚い靴下の上から履くわけなので、普段の靴のサイズ27.5cmのものを買っていいのだろうか。それとも、そういった履き方を見越してのサイズ表記なのだろうか。試着をしてから買うのがよさそうだ。
大阪の釣具屋を数軒あたった。鮎釣り用のウェーダーや鮎足袋などはあったが、渓流のそれはない。大阪にはイワナはいない。渓流釣りの人口は圧倒的に少ないのだろう。たまたま東京出張があったので、東京の釣具屋を回ることにした。
渋谷の上州屋の隅の、誰も顧みないような場所にウェーダーは置かれていた。試着もした。ばっちりだ。大きな荷物を大阪に持って帰ることになってしまった。3万円ほどの出費となった。
大野で仕事があったのでウェーダーを車に載せた。途中、ルアーを買おうと福井の上州屋に寄った。あれだけ探していたウェーダーが渋谷よりも豊富にあった。福井は渓流人口が多いから渓流釣りの品揃えがよい。わざわざ渋谷に行って、大きな荷物を大阪まで持ってきた私はなんだったのだ。
Tを誘って釣りに行くことにした。場所はTが最近よく釣っている九頭竜川の上流である。新しいウェーダーに袖を通し、ウェーディングシューズを履いた。なんて動きやすいんだ。シューズは軽く、疲れない。前までは動きにくいし、靴がすべりやすいので、動くのが億劫になってしまった。もっと早く買うべきだった。どんどん上流へとポイントを進めていける。Tの早い足並みにも、このウェーダーならついていける。
雪代は終わり、水はクリアになっていたが、川に入るととても冷たい。ずっと水の中に入っていると体温を奪われる。
Tは「つれた〜!」と橋の下で1匹目を釣った。同じ場所に私が投げたが釣れない。その後もぽんぽんと釣っていく。しかし、私は相変わらず釣れない。どうして簡単に釣っていくのだ。イワナは人影が見えたら隠れるという。私の姿が見えているからダメなのだろうか。しかし、Tはそんなことに気を使っている様子はなく、水辺に立ってルアーを投げている。
釣れなければすぐにポイントを移し、どんどん上流へと足を進める。川幅がだんだんと細く、傾斜が急になってきた。日も暮れてきた。このあたりが潮時だろう。ああ、今日も釣れずに終わるのだろうか。疲れがどっとやってきた。座り込んで水を飲んだ。
立ち上がって歩き出すと、大きな岩に囲まれた窪みがあった。小さな流れ込みがあり、水深もある。ここは絶対にポイントだ。もう失敗は許されない。私は岩陰に隠れて、スピナーを投げた。変な体勢で投げたので、きちんと投げられなかった。ポチョンと中途半端なところに落ちた。「ああ、また絶好のポイントでやってしまった」と思いながら巻いていると、カツンとアタリがある。そのままビクビクと糸を伝って感触が伝わる。
釣れている、これは釣れている、私は急いで巻き上げた。すると、くねくねと体をゆらしながら金色の魚が上がってきた。釣れている。バレないように急いで巻き上げた。そして、糸を掴んだ。
間違いなく糸の先にそれはある。釣れた釣れた、イワナが釣れた。
体長15cmほど。背中は金色でその中に白い水玉が、身から腹は銀色でオレンジの水玉模様が散りばめられている。お腹の下には鮮やかなオレンジ色のラインが入っている。熱帯魚などとは違う、上品な極彩色。清流の美しさから、こんなに美しい魚になるのだろうか。
たった1匹だけど、満足だった。林道を下り、車のあるところへと戻った。
帰りの足取りは軽かった。釣れたという高揚感と、新しいウェーダーとウェーディングシューズが快適だから。