21. お肉屋さんで呑む ~場所と人と美味しさの理由~


 そこは誰かにとっての大事な場所。
 他の人にはなんてことのない場所かもしれない。
 でもそこがないと文字通り精神的に生きていけない人が居る。
 なくしてはいけないとかじゃない。なくなると生きていけない。
 関係する人たちが食べていけなくなるに加えて、「心の拠り所」とする人たちが息をしてゆけなくなる。
 日々を過ごしていく上で魂の死を迎えてしまう人がたくさん居る。
 オアシスとか楽園という言葉で例えられもする。
 私は「Home」という言葉がしっくりくるように思ったりして、使っている。

 当連載「心はだか、ぴったんこ~女ふたり、立ち呑みの旅~」もHomeたちを巡る旅だ。
 軽い気持ちで共に大衆酒場巡りを始めた私と年上の友人である「斎藤さん」(仮名)が、お客さんやお店の方とたわいもない話をしたり、なんてことのないものを食べたり、会えて呑んでいるときはしょうもない話ばかりなのに帰宅してじぃんとしたり。
 気付けば連載も20回を超えた。
 途中、新型コロナによる影響で酒場が(劇場も)時短営業や休業の時期もあった。
呑みに行けなかったり、会えなかったり、行くことにも悩みが生じたり。
文字通り、店を閉めたり、閉まったまま閉店してしまった店も少なくなかった。
たくさん、たくさんのことを考えたこの頃、当連載が更新できなかったことから、もうひとつの連載も書かせていただいた。
 タイトルは「Home」。冒頭の想いを込めた。
 つまり両連載は私の中で繋がっていて、さらに今書こうとしている大きなものへも繋がっていて、「ぴったんこ」。
 と、いきなり、自分で宣伝するみたいに始めたのは理由がある。
 先日訪れたある酒場に、思わされたからだ。
 なんてことないビールがちょっと特別に美味しくて、ふと思わされた。

 阪急「庄内」駅にある芝居小屋を訪れた。
 阪急電車というとなんだか高級なイメージがある人も多いかもしれない。
 上品なあずき色の電車と宝塚へ行くイメージのせいもある?
 しかし「庄内」はいまなお昭和の香りが残りすぎている。
 芝居小屋も、宝塚大劇場とは大違い、ツッコミどころが満載だ。
 近年、旅芝居・大衆演劇の劇場も時代に合わせてまともな……失礼、小劇場演劇や商業演劇の劇場に負けないようなものも建てられ愛され続けている。
 こけら落としでは、興行師と劇場社長が紋付袴で、「四季劇場や新感線の公演劇場を超えました!」とか言ったりもして、それはどうなの? でも、快適な劇場は本当に増えた。
 一方で、玉石混交で清濁併吞なこの業界「らしい」小屋も生きている。
 この度訪れたのは後者だ。
 雑多なビルの中に雑貨屋さんや服屋さんと共に入っている劇場で、劇場スペースにも邪魔過ぎる柱がどーんッとある。
 初めて訪れた斎藤さんは笑っていた。
 私は「なんかまともになったなあ」と思った。
 オープンからしばらくは座席の下に一般家庭のお風呂で使う椅子が置かれていたのだ。
 高さ調節用の足置台がわり?! 優しいの? 適当なの?
 でもそんな劇場も地元のお客さんや劇団の追っかけさんに愛され続いている。

 この日観たのは50歳手前にしてチャラチャラくねくねと踊る座長とその息子だ。
 必死にチャラチャラしてた。
 いつぞや語っていた。
「俺は芝居に力を入れたい」
「踊り? 踊れないもん。だから苦肉の策(笑) 喜んでくれるでしょ?」
「でも皆きゃーって言うけど目を見つめたら逸らすよね(笑)」
 笑いながらも涙が出た。
お客さんから差し入れされたユンケルを元気よくというよりはなんだかつまらなそうに舞台で一気飲みしていた。
それ以上痩せたらあかんで。
ユンケルの贈り主もそんな気持ちだったのかもしれないなと思った。

終演後、ぶらぶらと散歩をしていて出会った店と看板に「!」
顔を見合わせた。

 

 

「肉を見ながらコロッケで呑める……?!」
「お好きな肉、焼きますってのも書いてある……」
 阪急庄内駅から東へ徒歩1分の「肉ふじ」。
 酒場? 違う。肉屋。肉屋で立ち呑める店!
 この日は時間がなかったので必ず来ようと誓い合い、翌月訪れた。
 そわそわドキドキしながら「あの、呑めますか?!」「ああ、どうぞ」
 するんと入れてくれる。
 何食べる? 二人とも散々悩んだ。見て、このラインナップ!

 

 

 しかもまさか、まさかの雰囲気なのだ。
 目の前には肉肉しいを通り越して「THE 肉」なショーケースがドンッ。
 でも案内されたスタンディングのテーブルには花が飾られていて、まるでレストラン。

 

 

 

 

 肉屋の一角のプライベートレストラン。
 清潔感溢れるお皿と箸をセッティングして下さる。
 きっと揚げたてを朝マックのハッシュポテト的な白い紙とかで包んで出してくれるんだろうなどと思っていたから驚いた。

 

 

 注文した揚げ物をさしたる愛想もなくショーケースの向こうで揚げてくれ、でも、丁寧にこちらにサーブをして下さる。
 カボチャコロッケのカボチャ感! やさしいのにちゃんとカボチャの味がした。
 カレーコロッケ! 全然下品なカレー味じゃない、あっさり、でも、ちゃんとカレー!
「ハムカツのチーズが、『うわあああ』っていうくらい美味しい」
「うわあああチーズやあああ! って泣きそう」
「どないしよ。あれもこれも食べたいですね」

 

 

 あほみたいにいちいち感動して声をあげる私たち。
 でもお店の方は淡々と肉屋の仕事をしていて、近所の人たちがコロッケや肉を買いに次々と訪れ、帰ってゆく。
 冷蔵ケースの肉たちは、買われるのを、待っている。

 誤解されてもチャラチャラと踊ること、いや、自分の仕事をすること。50の座長。
 自慢の品を買ってもらうこと、きちんともてなしてその場で食べてもらうこと。50年続くお肉屋さん。

「なんでこんな美味しいねやろ」

 昨今流行りというかバズる切り口は「レトロ」「昭和レトロを探訪!」かもしれない。
 でも、ただ「レトロ」とか「昭和」とか「むかしのもの」ではなく、それらがちゃんとそれぞれのやり方と気持ちで「今生きてる」ということを思わされた。
 続けるため、生きるため、残すための、自分のやり方とこだわりと矜持のようなものが伝わってくるように感じた。
 生きていくねん。生きてるねん。だから、こうやねん、これがウチやねん、って。
 ビールがとても美味しく感じたのも、雰囲気と気持ちのせいだけじゃなく、きっときちんと丁寧にサーバーを掃除されているからだろう。

「揚げ物食べ過ぎかもやけど、もっかい頼んでいいかなあ?」
「わしも食べたいと思ってました!」

「その場所」には、皆の想いが、現在過去未来に、滲んでる。

 さまざまこてこてな大衆酒場を呑み歩くようになって、そして劇場という場所、「生きていくそのものの舞台芸能」の劇場へ通い出して、さまざまな風景をみて、さまざますぎる人々と出会ってきて、感じるようになったこと。

 そのひと(店)のやり方とこだわりと続けることが気持ちが、誰かの、いや、双方にとっての「魂の生」の場所となるんや。
 一期一会が繰り返され、皆のHomeが続くんや。

 実はわたしたちはこの日この店に観劇前と観劇後に2度訪れた。
「また来た! って思われる?!」
「大事にしたいから改めて別の機会にすべき?!」
 劇場での観劇中からずっと考えていたのは斎藤さんも同じだったらしい。
「踊りの途中からコロッケのことばっかり考えてもうて。ジャーマンポテトも食べたいなあとか」
 だけどやっぱりあの味とムードが病みつきになり「戻って」きたのだが、店の人たちはツッコみも笑いもせず軽口も言わず淡々と注文を揚げてくれた。
 その、なんだか、ずっと変にべたべたしてくれず、でも、「ちゃんと」揚げて、食べさせて下さるさまと空気が、本当にいいなと思った。
 でもね。サーブして下さるときに、斎藤さんが思わず言ったひとことに対して、お店の御主人がちょっと笑って返して下さったんだ。これ、あの日のハイライト。

「とっても美味しいです」
「(笑) これも美味しいですよ(笑)」

 今度はショーケース内のお肉を焼いてもらおう。また行こう。

「ここ、住みたいですよね」
「住んで毎日ここで呑みたい」
「それ、ほんまにやりそう私たち(笑)」

 

 


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