残念な報告をしなければならない。
庄内・肉ふじが年明け1月で閉店をした。
21話と24話でも話題にした「お肉屋さんで呑める」店だ。
閉店をして随分と経つのに、私たちは知らなかった。
5月にこの店を目当てに近くの芝居小屋へ行った際に貼り紙に気付いた。
50年以上の歴史に終止符を打った、いや、打たざるをえなかったようだ。
閉店のお知らせと共にあの几帳面な仕事をするご店主らしい言葉があった。
「皆々様にこれからも善きこと素晴らしいこと楽しいこと沢山たくさん御座いますように」
決してお愛想上手じゃないけれどハート型にくりぬいてくれたチーズ(24話)。
「これも美味しいですよ」と照れながらおっしゃって下さった顔。(21話)
50年。しんどかったんかな。「肉屋で角打ち」は苦肉の策やったんかな。
近くにあるマクドナルドは某ラジオパーソナリティーというかコラムニストがXにて(本音なんだろうけれど)いけすかない褒め方をしていてバズった。
マクドに行列が出来ていた5月だった。
でもその近くでひっそりと、器用とは言えないけれど、地元の皆に愛されていたお肉屋さんが閉店、そうしてしばらくが経つ。
そんな訳で庄内には行かなくなっても随分と経つ。
我々はぼちぼち会って相変わらず呑んでいる。
お気に入りの台湾餃子の店が出来たのでそこにばかり通っている。
暑すぎた夏、スパイスサワーとスパイス枝豆にハマってしまった。
レモンサワーの中に実山椒、枝豆の浅漬けの上にも実山椒、棒餃子も水餃子もおいしい。
西成や新世界やその他下町でのおっちゃんとの呑みはやめていないが、最近は知らんおっちゃんらと話すよりも2人で話したい気持ちや話題が多かった。
とはいえ、夏前に、面白い出会いが、笑いながらちょっとジーンとさせられた機会もあったので書いておきたい。
それは、近鉄「鶴橋」駅にある「正宗屋」に行った際のこと。
暖簾をくぐって「いらっしゃい」と威勢よく声をかけていただいて座って、
さて、「瓶ビール、大くださーい」「はーい、瓶なー」
よく冷えたアサヒが来た。よし注ぎ合おう。呑もう。でも……。
えっと。えーっと。えーーーーっと。
隣り合う席のおっちゃんらがクスクスと笑っている。
勿論、知らないおっちゃんたち。夕方16時半くらいからもう「出来上がって」いる。
えっと。えーっと。えーーーっと。
「グラス下さいーっ」「言いにくいな。もうちょっと大きな声で言うた方がええかな」
「グラスー」「グラス……」
わたしと斎藤さんは声を合わせて、でも、気を遣いながら、言うが、ワンオペ状態で誰かの注文のつまみを作っているマスターには聞こえない。
と、思ったら、隣の出来上がってるおっちゃんがスコーンとした声で言った。
「このおねえちゃんたちのグラスないでー」
「ごめんー」
焼き場から汗をかきながら持ってきてくれた。
「全然気にしてへんから」
「このまま呑もーとしてたー」
酔ってもいないのにしょうもない返しをしたのだが、これが、この我々のノリ(?)が、おっちゃんたちにはしっくり来たのかもしれない。
狭いカウンターで、斎藤さんの隣に座っていたおっちゃんが話しかけてくる。
「初めて?」「ここはええ店や」
「ここのマスターは腕はええねん、腕はええけど、儲ける気ぃが全然ないねん」
あっちの(私の2~3席向こう)のおっちゃんはそれを見てニコニコしていて、
この人も入りたそうで、話に入りたそうで、ああ、もう、忙しい。
最近、立ち呑み屋などでも「女性への声かけ禁止」「おごり禁止」という貼り紙をする店も結構出てきた。わかる。(ある意味)大事だ。
今時こうして絡んでくる知らないおじさんは「ウザい」。のも、ある。
でも、なんだか世知辛いというか、さみしい時代だな、とも思う。
正直、面倒臭いときは多い。2人で来てるねん。2人で喋ってるねん。
我々は我々で会話したいな、のタイミングを見ずに、ずっとずっと話しかけてくるのは、「おいおい」となる。
目を見合わせて苦笑もする。
でも、「禁止」としてしまうのも、人間を信用してへんような気もする。
(でも店側の気持ちと苦渋の決断もわかる)
難しいもんやな。折り合い点はあるんかな。
と、考える私たちは「こういうこと」に慣れているからかな。
女子は女子でも、いろいろ経験してきて(きすぎて)すれっからしだからかな。
たった数分の間に、わたしたちは彼が野菜を作って売っていて、お米も扱っていて、今年はお米関係で大変や、という仕事をしながら、ここに呑みに来ていること、ずっと通っていることを知る。
斎藤さんはものすごく適当だけれどめちゃくちゃ優しい返しをしている。
「ほな今度シャインマスカット持ってきてー」
「お米売ってるん?! あるん?! それは今めっちゃモテるで。」
私は、この人が私たちと喋りたかったからちいさい日本酒小瓶をもう一本わざとお代わりしたことを見逃がさなかった。
そんなはちゃめちゃな間も、カウンターの奥ではマスターが黙々と仕込みをしている。
無口に、たまにこちらの話に耳を傾けてふふふと笑いながらも、串を売ったり、野菜を切ったり、まだ早い時間、これから混む時間に向けて、淡々と作業をしている。
リズムよく何かを刻む包丁の音や、ブーンと静かに音を立てる冷蔵庫、夕暮れ前、思い思いに呑むおっちゃんたち、ずっと喋っている八百屋さん(?)。
「せやけどここはもう60年も続いてるんやで」
お代わりの日本酒がなくなろうとするタイミングで八百屋さんは言った。
「この人(マスター)はほんまに商売っ気のない人やからな、わしらが代わりに宣伝したり、来てくれた人をもてなしてるねや」
もてなしやったん?
それは失礼しました。とは、口には出さない。
「すごいな」「60年」などと言う。
そうか、そうして、そないして、60年かぁ。
肉ふじのことがあったから、しみじみとなった。
続くこと、続けること、
お店も、なんでもそうだけれど、それは当たり前のような簡単なようなことに見えて、でも実はとてもとても難しいこと、それが出来ていることってすごいこと。
近ごろ、己も若くないを何かにつけて実感するからこそ、も思う。
続けること、続けたかった人やことやもの、続いていること。
でも、もしかしたら、なにかあっても、また続く、続けられるかも、なこともあるし、いろいろなことは日々は奇跡だ。
「また来たってや。ここ、ここはな、食べるもんなんでも美味しいねん。魚もな、旨いねん、この人無口やけど手は器用なんや。なんか食べるか?」
「いい、いい、いい、いい」と「お腹いっぱいやねん」を二人して連呼するのは、嫌だからじゃない、ウザいからじゃない、気持ちが沁みるからだ。
だから、2人して全力でお断りする。
毎度ながらこういった店で呑み始めると雰囲気と会話でお腹がいっぱいになり、ポテサラだの漬物だの小鉢だのくらいしかつつかないわたしたちだ。
しかし、ご機嫌なおっちゃんは、譲らない。
なんてったって、日本酒小瓶2本いってる。
「煮付けな。煮付けがうまいんや。サバか。いわしか。
どっちがええ。いや、どっちがええって。遠慮しな。それくらい食べれるやろ」
しゃあない、いえ、ありがたいので、サバをいただこう。
2人でひとつのサバの煮付けをつつく。
ええい、私たちも小瓶(ビール)もおかわりだ。
サバは本当にやわらかく煮付けられていて、
骨もぜんぜんなくて、辛くもなく、やさしい丁寧な味がした。
「な。な。また来たってな。ええやつやから。ええ店やから。グラスは忘れるけど」
マスターは苦笑している。お米屋さんは暖簾をくぐって帰ろうとする。
「大丈夫大丈夫。グラスなくても呑める」
「自分で取りに行くスタイルかと思った」
酒場で培ったノリとトークで返すと、おっちゃんはますますニコニコとして、それは会話が楽しかったからか、2本呑まれたからかはわからない。
奥の方の席から、別のおっちゃんらが喋っている声が聞こえる。
「そりゃなんてったってわしら戦争経験してきたからな。強いで」
私たちは言う。これは本音で言う。
「また来ます」
「明日も来ようかな」
そして八百屋さんはなんだかすごく深い名言をへらっと残して帰って行った。
「せや。それでええねや。正しさだけでは息詰まる」
なんなん! ちょっとかっこいいやん!
さすが勝手に応援隊長、営業部長やなあ、とは褒め過ぎか。
やはり酒場には「善きこと素晴らしいこと楽しいこと」のかけらのようなものがたくさんだ。よし、暑い夏も過ぎたし、またあちこちに、いろんな酒場に、いろんな人に出会いに繰り出そう。
って、わたしたち、2人とも、サバはあまり得意じゃないんだけれども。



