サバ


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 女川の町は色がなかった。永遠に灰色が続くようだった。
 曇りの日は本当に切なくなる。津波が町を飲み込んでから2年が経っていた。
 この町に仕事で通うようになった。店はほとんどが仮設店舗で遊ぶ場所がない。自然と海へ向かうことになった。海には色があった。空の色によって青になる。緑になる。他と変わらぬ海だった。この海はたくさんの人を飲み込んでいた。陸はそのことをまだ覚えている。海はそれをもう忘れてしまったように何事もなく過ごしている。

「釣りですか?」
 ホテルにチェックインしようとすると、フロントの男性が話しかけてきた。私の竿ケースを見て気づいたのだろう。
「仕事で来たんですけどね。空き時間ができればちょっとやろうと」
「私も釣りが好きだったんですが、震災以降、海が怖くなってしまって」
「そうでしたか」
 私は突然の告白にうまく対処できずに生ぬるい返事をしてしまった。
「釣れますよ」
 フロントの男性は客にいきなり胸中を明かしたことを詫びるように、気を取り直して返事をした。
「何が釣れますか?」
「アイナメがいいですね」

 震災から1か月後に被災地に行った。青森の八戸から、三陸海岸を走る国道45号線を南下して、岩手の釜石まで車で走った。八戸では津波の爪痕は見えなかった。その後も、震災なんてなかったように美しい松が広がる砂浜が続いた。
 岩手の北部の野田あたりから、様子が一変した。破壊された家が死を待つように残っている。ガードレールがわかめのようにねじれている。瓦礫が積み上がっている。南へ行けば行くほどに被害は大きくなってくる。
 町全体がなくなっている。海沿いを走っていた国道は内陸に入る。海は見えなくなる。海から離れるだけで被害はなくなる。のどかな農村の風景が広がる。心が休まる。
 道はまた海沿いに戻っていく。その先に町があるとナビは示す。町がなくなっていなければいいのに。
 祈りながら車を走らせる。海が見えてくる。町はなかった。
 道はまた内陸に入る。海沿いを走る。消えた町 を通る。これを数度繰り返す。小さな漁村から宮古、山田、大槌、釜石といった大きな町まで、例外なく町はなくなっていた。
 釣り人を見かけた。破壊された漁港で糸を垂らしている。彼はいつものようにただ釣りをしているのか。何かを忘れるために釣りをしているのか。道中で見かけた、唯一のツッコめるもの――いませんでええやろ――の存在が、なぜか希望の象徴のようだった。

 女川で何が釣れるかわからなった。リールと竿だけ持参した。ルアーは現地調達しなくてはならない。仮設商店街の中の釣具屋へ行った。プレハブの釣具店だった。ヨドバシカメラの店員のような、釣りとは無縁そうな色白で眼鏡の店員がいた。親の釣具屋を仕方なく手伝っているのだろう。
「何が釣れますか?」
「何を釣りたいですか?」 
 早口で切り返された。自分の要望を整理してから店員に声を掛けろという接客態度はまさにヨドバシカメラのようである。
「今、釣れるものってなんですか?」
「エサですか?ルアーですか?」
「ルアーです」
「ツバス狙いがいいでしょう。メタルジグがここにあります」
 棚にはたくさんのメタルジグが並んでいた。メタルジグとは金属片に色が塗装されたルアーである。構造がシンプルなので安い。とはいえ、重さ、大きさから、色、形まで様々なバリエーションがある。何を買えばいいかわからない。
「どのメタルジグがいいですか?」
「何がお好みですか?」
「よく釣れそうなものを」
「フェラーリからヴィッツまでありますから」
 店員は眼鏡を触りながら答えた。 
「ヴィッツでお願いします」
「これがいいでしょう。安いけどよく走りますよ」 
 店員は私に小指ほどのサイズのメタルジグを手渡した。よく走るとはどういうことなのか。よく釣れるということなのか。よく動くということなのか。しかし、これ以上質問を重ねると店員の機嫌を損ねそうである。
「どうやって動かしたらいいんでしょうか?」
 店員は仕方がないなあという顔で答えた。
「まずジグを投げます。底に着いたら20回巻く。巻くのを止めて、ジグがまた底に着いたら20回巻く。それを繰り返していると釣れます。いいですか、底に着いたら20回巻く。巻くのを止めて、ジグがまた底に着いたら20回巻く」
 店員は手つきをまじえて説明した。目の前に海があるかのような見事な手つきだった。この店員は釣りをするのだと安心した。

 釣具屋からすぐの漁港に着いた。店や住宅はプレハブの仮設だったが、漁港は仮設ではなかった。造成されたばかりのコンクリートが白く眩しい。漁港の先端に立つ。
 海は静かだ。大海原にメタルジグを投げる。鉄の塊がヒューンと気持ちよく飛んでいく。ジグが底に着いたら20回巻く。巻くのを止めて、ジグがまた底に着いたら20回巻く。しかし、まったく反応がない。この鉄の塊、無生物の塊に魚が食いつくのだろうか。私たちは鉄の白米を食べようとするだろうか。全く魅力を感じない。何度も投げたがダメだった。
 池や川なら障害物や岩など地形の変化がポイントになる。海は広大でどこに投げればいいかわからない。
 そういえば『海のルアー入門編』に水面の微妙な変化がポイントとあった。よく目を凝らして水面を見ると、さざなみがある場所とない場所がある。ちょうどその境を狙ってルアーを投げた。
 底までルアーを沈める。と、途中でコン! とアタリがあったように思えた。しかし、ただそれだけだった。何か障害物にでも当たったのだろう。底に着いたら20回巻く。ちょうど10回目あたりで、コン! と何か感触があった。急いで巻いてみた。重さに変化はない。魚は掛かっていない。しかし、これはアタリかもしれない。もしかしたら1回目のものも障害物ではなかったのかもしれない。もう一度、さざ波の境目にルアーを投げた。
 底に着いたら20回巻く。ちょうど10回目でコンとあたりがあった。抵抗がある。少し重い。何かが掛っている。急いで巻く。重さは感じるがすんなり巻ける。大きくはない。もしかしたらビニール袋か何かかもしれない。急いで巻く。銀色のものが見えてきた。動いている。これは魚だ。水面から引き上げる。あがってきたのはサバだった。鈍くくすんでいるのに美しい青色。その上に黒い斑点がある。20センチほどで大きくはない。サビキで山ほど釣ったことがあるサイズのサバだ。たった一匹のサバだ。しかし、はじめてメタルジグで釣った魚、海で初めてルアーで釣った魚だった。

 サバがブルブルとケータイのバイブレーションのように震えている。これは着信を知らせているのかもしれない。私はサバを持って電話に出た。
「うん、釣れたよ。海でルアー初めてね。サイズは小さいけどね。ありがとう」
 私は電話を海に返した。


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