ボラ


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 満潮が過ぎた。月明かりに照らされた運河の水面が騒がしい。たくさんのミミズのようなものが、そのボディから考えられないスピードで動いている。
 海底にいるゴカイ、イソメなど、海のミミズのようないわゆる多毛類という生物が交尾のために巣穴から出てきて水面を漂う。これを「バチ抜け」という。ゴカイやイソメが太鼓のバチに似ているからそう呼ばれている。小指ほどの短いバチ、人差し指ほどの中サイズのバチ、ドラムスティックほどの長いバチ、いろんなバチが私の目の前でうにょうにょと動いている。ミミズのようにクネクネと動くのではなく、体の側面の繊毛を動かしてスイスイと泳いでいる。
 大阪湾の工場地帯の運河で、満月の日に起こるサンゴの産卵のような自然の営みが夜毎に行われている。生命の神秘をこんな場所で感じるとは。グロテスクなその風景はなかなか見られないものであり、マニア向けにバチ抜け鑑賞ツアーを企画してみると流行るかもしれない。
 バチ抜けはスズキの捕食が活発になるので、釣りの絶好のシーズンである。大分では惨敗だった。釣り方の手がかりさえ掴めなかった。あれから、数度行ったがまったく釣れなかった。自分の腕が未熟なことはもちろんだが時期も悪かった。今回は最高のタイミングだ。大阪では5月中旬から約1か月間、最盛期を迎える。

 友人のSとTと釣り場へ行った。Sは糸の結び方も、満潮と干潮もよくわかっていない。とりあえず釣りをしてみたいということで釣具屋に連れて行き、いちばん安いタックルを買い揃えさせた。Tはブラックバス釣りにハマったが海でルアー釣りをしたことがないため、機会があれば連れて行ってほしいということで今回に至る。
 釣り方はバチに似たルアーを投入すればいいだけで、複雑なアクションは必要ない。ゆっくりと巻く、ただそれだけでいい。
 ピチャピチャとバチが動いて波紋が起こる。その真ん中に投げ入れる。期待をせずに巻いていると、スッと吸い込まれる不思議な感覚があった。しかし、それだけだった。もう一度投げてみた。スッと吸い込まれて、カン!とアタリがある。魚だ、これは。しかし、掛からない。何度か同じアタリがあるが掛からない。魚が小さいからだろうか。

「来た!」

 Sが大きな声を出した。竿が大きくしなっている。

「網!」

 Sが私に指示を出す。私はSの横にスタンバイする。タモを網というほどにSはまだ素人だ。しかし、Sが魚をかけている。魚がジャンプする。Sは慣れない手つきで応戦している。銀色の大きな魚が上がってきた。私は這いつくばってタモを伸ばす。うまく魚が入った。50cmほどの精悍なハネであった。

「こっちも来ました!」

 Tが言った。急いでタモを持って駆けつけた。どうもさっきと形が違う。体高が高い。チヌであった。30センチほどで、少し小ぶりながら良いサイズだ。

「来た! 網!」

 またSが言う。魚はジャンプするがSはさっきよりも落ち着いていていなしている。先ほどと同じサイズのハネがあがってきた。私はタモですくい上げた。

 私には一向にアタリがない。とても焦っている。
 Sを見ているとかなりゆっくり巻いている。Sを真似してゆっくり巻くがアタリはない。そもそも、糸の結び方さえ知らないSの真似をどうしてしなくてはならないのだ。バチ抜けというものがあることを調べたのは私だ。さらに、ポイントまで調べて、車まで出して私はみんなを連れてきた。すべて私がプロデュースした。しかし、私は釣れない。ここにはSとTがいる。ここにいるから釣れないのだ。私は誰もいないポイントへと移動した。
 投げ入れてからルアーを沈めて、ゆっくりと巻いた。早速カン! とアタリがあった。魚がジャンプした。そして、糸の先が軽くなった。魚が外れた。小さくはなかった。惜しかった。きっと糸が弛んでいたからだ。ピンと張り詰めていなくてはいけなかった。
 気を取り直してまた投げた。数巻するとカン! とまたアタリがあった。ジャンプした。しかし、まだ重さを感じる。激しい抵抗がある。魚が掛かっている。竿がギューンとしなる。パワーが違う。無我夢中でリールを巻く。心臓がバクバクする。外れないでくれと念じながらリールを巻いて魚を寄せる。魚が姿を現した。
 ハネだ。よし、ハネだ。周りには誰もいない。自分で魚を取り入れるしかない。左手で竿を立てて魚を寄せ、右手でタモを出す。意外とすぐに抵抗をあきらめ、こちらに素直にやってくる。タモに入れようとしたちょうどその時、魚が急に暴れ出した。そして、糸の先が軽くなった。魚はどこかへ行ってしまった。取り込む時に、ルアーのフックがタモにかかって、魚から外れてしまった。焦って取り込もうとしてしまった。もっと弱らせてからタモに入れるべきだった。
 しばらくそこで投げたがアタリがない。Sたちのところへ戻った。魚をバラしたと言うがみんな信じない。

「来た! 網!」

 Sの竿は岩でも引っ掛けたように大きくしなっている。私はタモを持って待機する。意外とあっさりと魚が近づいてきた。でかい。私はタモですくい上げた。無理に上げるとタモが折れそうなほどに重かった。ボラだった。サイズを測ると82cmだった。びっしりと体を覆うウロコ、鈍重なシルエット、はちきれそうなボディ。ボラにはボラという響きがよく似合う。ボラっとしている。なにより、ボラの表面はぬるぬるとして臭い。ボラを海に帰してもボラの残り香でタモが臭かった。海水で濯いだがなかなか消えなかった。

 ぱったりとアタリが止まったので竿をしまった。私はみんなを家まで送った。ボラをすくい上げたタモは車中とても臭かった。
 私は家に帰ってから人のためにしか使っていないタモを風呂場で一人洗った。


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