イワナ


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 スプーンで魚が釣れる。それを自分の目で確認できた私はイワナを釣ろうと思った。
 
 イワナは美しい山間の渓流に生息する。水が綺麗でないといけない。大阪とは真逆のような環境にいるのだ。イワナの塩焼きを山の中の温泉旅館で食べたことはあるが、生きているイワナは見たことがない。とりあえずより山奥へ行こうと福井県と岐阜県の県境にある和泉村に向かった。

 和泉村までの国道は九頭竜川の源流沿いを走る。川の名前がまずは釣れそうだ。その源流だからさらに釣れそうだ。ポイントを探しながら車を走らせた。川にすぐ入れて、車も駐められるという条件の場所は少ない。しばらく行くと川沿いに温泉があった。その前が開けていた。温泉の駐車場に車を駐めて、川岸へ行った。膝ほどの深さで底が見える。水は透き通っている。ところどころに丸い石が顔を出している。水面で何かがぴちゃぴちゃと跳ねている。魚だろうか。ここでスプーンを投げた。全く反応がない。しばらくしても魚の気配がなかった。 跳ねていたのはアメンボだった。
 
 まだ山深さが足りないのかもしれない。より上流へ向かった。石徹白(いとしろ)川という九頭竜川の源流へ。川は急に細くなり、人気は急に少なくなる。車とすれ違うことがない。民家はあるが人が住んでいるかどうかわからない。
 途中、小さなダムがあった。底にはベージュの砂が敷き詰められ、青い水が溜まっていた。その水は自然のものではなく、青い絵の具を溶かしたようだった。気味が悪いほどに透明なので、あたり一面底までしっかり見える。魚はいない。何度か投げてみた。しかし、全く反応はない。粘ってみたがダメだった。こんなに奥まで来てもイワナには出会えないのか。
 
 さらに上流へ。人気のないところほど魚がいるに違いない。石徹白川沿いの車道を走る。道路の右手に未舗装だが川へと下りていく道があった。車道から外れて凸凹の道を進み、車を駐めた。
 小さな落ち込みがある。近づくと魚影が見えた。そして、私に気づきパッとどこかへ消えた。あれがイワナだろうか。今まで見たことのないタイプのシルエットだった。ちょうど水が落ちてくるあたりにスプーンを投げ入れた。水飛沫の中で銀色の金属片がひらひらと舞っている。それは魚というよりも銀色の落ち葉のようであった。落ち葉に魚は寄ってこない。何度も投げても現れない。気配を気づかれてしまったからだろう。もうここはダメだ。車に戻った。
 
 未舗装の道をバックで進み、車道に乗り上げようとした時、ガタンと音がした。車が動かなくなった。アクセルを思い切り踏みこんでも動かない。車を降りて確認すると、左の後輪が道路の側溝にはまっていた。溝に向かって垂直にタイヤを進めていれば難なく溝を越えられたが、水平に近い角度で入って、タイヤがちょうど溝にはまってしまった。運転席に戻って思い切りアクセルを踏む。ウィーンと大きな音を立ててタイヤが空回りするだけだった。車を一人で押してみた。
 
 車が少し揺れただけだった。力を込めて体当たりした。体が弾き飛ばされた。
「ファイト! 一発!」と言いながら、車を押してみた。ダメだった。私が「ファイト! 一発!」と一人で言うからダメなのだ。「ファイト!」と言うと「一発!」と誰かが言ってくれなくてはならない。つまり、一人ではもうどうしようもない。ロードサービスに電話をするしかない。ケータイを取り出した。圏外だった。山の中で独り、ただ、ザーと川の流れる音がする。
 
 車が通らないかとしばらく待った。30分ほど待ったが誰も通らなかった。日が少し陰ってきた。これ以上待つのは危ない。そういえば、途中に民家があった。そこまで行けば人がいるかもしれない。しかし、ずいぶん先だ。車が通らないかと期待しながら来た道を歩き始めた。
 
 川沿いの道を歩く。ザザーと川の流れる音がテレビの放送が終わったホワイトノイズのように聞こえる。目の前の風景がモノクロの粒子からなるように見えてきた。このままでは世界に閉じ込められる。
 
「ファイト!」と大きな声を出した。
「ファイト! ファイト! ファイト!」とそれはこだました。
「一発!」とは返ってこなかった。返ってこなくてよかった。
 
 車は一切通らない。先ほど釣りをしたダムまで来た。その水は不気味なまでに青かった。ダムを越えると、山が壁のように迫ってきて、空が小さくなった。新緑の山が私を圧迫する。前方にトンネルが現れた。車が1車線しか通れないトンネルだ。これを通り抜けなくてはいけないのか。中に入る。空気は冷たい。何か出るんじゃないかという恐怖心が空気をさらに冷たくする。それは寒気に変わった。

 体を温めようと、早歩きをした。足音だけがカツンカツンと響き渡る。突然、空気が震えてきた。その震えはだんたんと大きくなった。前方が眩しい。その光はだんだんと大きくなってくる。そして、私の横を横切った。車だった。
 
 ポツンと頭に冷たい何かが落ちてきた。これは水に違いないが水ではないかもしれない。でも、たぶん水である。きっと水に違いない。陽気になろう。私はスキップをした。
 
「アイム シーング イン ザ レイン」
 
 落ちてくる水を雨と思い込むために『雨に唄えば』を口ずさんだ。この部分しか歌詞を知らない。ただただここをスキップしながら繰り返し歌った。
 
 私の陽気さにトンネルも負けたのだろう。トンネルは私に出口を指し示した。光がだんだんと大きくなる。もうすぐだ。
 
 私は光に包まれた。温かい。太陽はなんてやさしいんだ。ピーンと音がなった。聞き覚えのある音だ。ポケットのケータイを取り出した。メールが来ていた。Yahoo! ショッピングからの案内だ。ありがとう、Yahoo!、電波が入るということを知らせてくれて。
 
 ロードサービスに電話をかけた。街中から行くので1時間はかかると言われた。私は車に戻った。もうトンネルも怖くない。山の景色を楽しみながら車へ戻った。私はしばし仮眠を取った。
 
 コンコンとドアをノックする音がする。ロードサービスの青年だ。車を出て状況を説明すると、青年はジャッキでタイヤを上げ、タイヤと地面の隙間に板を入れた。いとも簡単に車を救い出し、彼は去っていった。車は車道に戻った。もう夕方だ。よく釣れる時間帯である。あとワンチャンスある。
 
 山を下っていると、天狗岩という案内表示があった。観光スポットなのだろう。数台車を置ける駐車場が整備されている。車を止めて岩の方へ歩く。道が整備されていて川のすぐ近くまで簡単に行くことができる。天狗の鼻のような形をした大きな岩がある。岩の前に深い青色をしたたまりがある。水は深く神秘的だ。魚と天狗の気配がする。
 
 たまりの真ん中にスプーンを投げた。表面を引いても何の気配もない。かなり深い。今度はたっぷりと時間を取ってスプーンを沈めた。重いルアーだと手の感覚や、張っていた糸が弛むことで底に着いたことがわかる。しかし、軽いルアーでは底に着いたかどうかの感覚がない。川の流れがあるため、底に着く前に流されている可能性もある。投げ入れたスプーンがどのあたりを漂っているのか見当がつかない。より重いルアーに変えればいいのだが、手持ちには軽いスプーンしかない。
 
 川の真ん中に投げると流れが速くて流される。自分の足元ギリギリにスプーンを落とした。これでもかと思うほどにたっぷりと時間を取った。底まで沈んだだろう。糸をゆっくりと巻いてきた。スプーンが上がってきた。水面に近づいてきたところで、ぬ! と魚が現れた。イワナだ。しかも、大きい。しかし、手にはその驚きは伝わらず、自動でくるくるとリールを巻いてしまった。スプーンがぴょんと地上に出てしまった。イワナは水面までスプーンを追ってきた。私と目が合った。大きかった。40cmはあったろうか。もう一度同じところに沈めてみる。もう、彼は現れなかった。何度も何度も落としてみた。同じ結果だった。目が合ってしまったから仕方ない。
 
 巨大な鳥が空を横切った。鼻が大きかったような気がした。私は急いで竿をしまって、車に乗った。溝がないか何度も確認した。


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