イワナ 2


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 福井ではミンミンと大阪とは違う蝉が鳴いている。クマゼミのノイズと違って品がある。
 海水パンツとサンダルで山に来た。川の中に入るためだ。これなら、様々なポイントを攻めることができる。前回、石徹白(いとしろ)川ではまったく釣れなかった。別の水系の真名川の源流へと向かった。
 大野市街地から車で山の中へ行く。ダムを越える。ケータイの電波は30分ほど入っていない。もうしばらく車ともすれ違っていない。道路に沿ってずっと川が流れている。
 広い河原があったので車を止めて、川へと降りた。山奥ではあるが道路が見える場所で釣るので安心感がある。 
 
 大きな丸い石が転がる河原を歩き、川に入った。灼熱の河原からぬるい水温を想像していたが、夏に飲む井戸水のようにひんやりとしていた。
 川の真ん中に立つ。緩やかな流れを両足が受け止める。スプーンをまっすぐ上流に投げる。リールを巻く。なんて気持ちがいいんだろう。釣れるか釣れないかなんてどうでもよくなってきた。これが渓流釣りの醍醐味なのか。 
 
 川の中を上流に向かって歩く。スプーンを投げて糸を巻く。いつもの動作を繰り返す。ふと膝に違和感を感じた。大きなハエのようなものが止まっている。
 アブである。放っておくとチクリと刺した。手で払うとすぐに飛んでいった。スプーンを投げる。今度は背中がチクリとする。アブを手で追い払う。スプーンを投げる。またチクリとする。アブが私の周りに集まってきている。

 アブから逃れるために上流へと歩いて移動した。木陰に大きな淵があった。釣れそうな気がしてならない。気を取り直してスプーンを投げた。対岸のギリギリに着水した。コンとスプーンを弾くようなアタリがあった。慌てて合わせる。しかし、何も掛かっていない。きっとイワナに違いない。もう一度、同じ場所に投げる。コン! とまたアタリがある。急いで合わせる。しかし、魚は掛かっていない。もう一度投げる。
 チクッと膝にアタリがあった。アブである。アブに構っている時間はない。すぐに投げる。アタリはない。もう一度投げる。アタリはない。せっかくいい感じなのにアブが邪魔をする。手でアブを追い払うがまたすぐに集まってくる。

 アブを避けるためにさらに上流へ移動した。また大きな淵があった。そこにスプーンを投げた。またコツン! とアタリがあった。しかし、魚はのらない。着水した瞬間に食ってくる。糸が弛んでいるから魚が掛からないのか。着水ギリギリでベールを返し糸が張った状態で着水するようにした。アタリがあった。急いで合わせた。魚が掛かった。しかしすぐに外れてしまった。よしこの感じだ。もう一度投げた。
 チクッと膝の裏に来た。構わずまた投げた。何度も投げた。反応がない。アタリがあるのはアブばかりであった。
 くそ、もうアブを釣ってやる。竿でアブを叩き落とそうと振り回した。水をすくってアブに水をかけた。全く効果がない。アブは私の周りに集合している。刺された箇所がだんだんとかゆくなってきた。もう釣りにならない。帰ることにした。

 車に戻ると、車の周囲にびっしりとアブが張りついていた。アブは車を生物として認識し、そこから血でも吸っているようであった。
 車に入りたくない。しかし、入らなくては帰れない。立ち往生しているとアブが飛んできた。気づかれてしまった。こうなったら仕方がない。意を決して車に近づき、急いでドアを開けて車に滑り込んだ。アブも車内に入った。
 追い払おうと窓を開けるとさらに大量のアブが入ってきた。車内をアブが飛び交う。フロントガラスにもアブが張り付いている。前が見えない。この場を急いで離れなくてはならない。急いでアクセルを踏んだ。ドンと何かにぶつかった。猛スピードでバックしてハンドルを切ってまたアクセルを踏んだ。
 河原を抜けて車道に入った。窓を開けてスピードを上げる。アブが風で流れていく。まだ数匹は車の中をぶんぶんと飛び回る。車を止めて追い払いたいが、まだ川に近いのでアブが集まってきそうだ。車をしばらく走らせて市街地に入ってから、車を止めてアブを完全に追い払った。バンパーが凹んでいた。
 
 ホテルに戻った。刺された場所がかゆい。さらに熱を帯びて、体全体が火照ってきた。全身が、熱く、かゆい。何も手につかない。急いでドラッグストアに行った。キンカンを買い、体に塗りたくった。ひんやりと気持ちよかった。しかし、すぐにキンカンの冷涼感を体の熱が上回った。かゆい、熱い。何もできない。風呂に水をため、湯船に入ってひたすら体を冷やした。
 ワンシーズンをかけて魚が全く釣れなかった。アブが恐ろしくて川に行けなかった。イワナを釣ることはあきらめた。

 渓流の美しい魚は、美しい場所に住む、美しい人間しか釣ることはできない。大阪という薄汚れた町に住んでいる人間には高嶺の花だ。私は釣れて所詮ウグイぐらいなのだ。

 イワナは私にとって天然記念物のように輝いていた。


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