マダイ


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 釣りを始めたばかりのSがカヤックを買った。フィッシングカヤックというその名の通り釣り用のものである。まだ満潮も干潮もよくわかっていないSがいきなりこういうものを買った。釣りには順序というものがある。
 
 それはさておき、さっそくカヤックで釣りに行こうということになる。私はカヤックを持っていないが、海のそばでレンタルできる場所が和歌山にあるのでそこへ行った。そこではマダイが釣れるという。
 
 カヤックには背丈ほどの長さで人が一人乗れるほど、真ん中に座椅子のようなものがついている。それを砂浜まで運び、釣り道具を積み、座席の後ろの50センチほどの空間にクーラーボックスを積んだ。
 
 砂浜から漕ぎ出す。慣れない手つきでパドリングをする。大海原に向かってふらふらと動き出す。水面が近くちっぽけな自分自身と大きな海がしっかりと向き合えているような気になる。よい気分である。
 
 少しバランスを崩すとカヤックが傾いて落ちそうになる。しかし、これほど簡単に落ちるわけはない。私が慣れないからそう思うだけできっとこういうものなのだろう。Sはスイスイと進んでいる。
 
「カヤックってグラグラする?」
 
「いや、めっちゃ安定してんで」
 
 なるほど、そうか。この感覚がカヤックにおける安定という感覚なのか。魚群探知機もないので、一体どこがポイントかわからない。沖に出るのが怖いので岸近くの岩場で釣りをしていた。
 
 風が吹き、波が出てきた。カヤックがゆらゆらと揺れる。しかし、こういうものなのだろう。釣りを続ける。
 
 船体の真横に波があたった。カヤックが大きく右へ揺れた。体のバランスを取ろうと左に体重をかけた。するとそのまま左にひっくり返った。
 
 ゴツゴツとした山に囲まれた静かな湾、リアス式海岸の風景がゆっくりと回転した。この回転にあらがえない自分の無力さ、無力な自分は水に落ちるべき当然の存在であるという覚悟、こんなことに誘ったSと不安定なカヤックへの怒りが数秒の間に巻き起こった。
 
 水の中に落ちた。自分の吐き出す泡が見えた。体は浮力を感じていて、意外と落ち着いている。ライフジャケットの効果をしみじみと感じている。
 
 水中から顔を出して、立ち泳ぎをした。下に何か気配を感じた。リールの着いた釣竿が真っ逆さまに落ちていく。ああ、数万円が落ちていく。それをマダイが追っていき、そのまま海底に消えていった。残ったのは水面に浮いている安いクーラーボックスだけだった。
 
 カヤックにつかまり、近くの陸地を探した。磯の隙間に猫の額ほどの砂浜がある。足をかいてカヤックを押して岸まで移動した。興奮していたからか、水温はそんなに冷たくなかった。
 
 砂浜にあがった。水中より陸上の方が寒い。風が冷たい。あまりに寒いので濡れている服を脱いだ。人知れぬ砂浜でしばらく全裸になって日光を浴びた。ああ、ヌーディストビーチじゃないかと思うほど心に少し余裕が出てきた。それにしても、あいかわらず寒い。このままここにいると風邪をひいてしまう。私はおそるおそるカヤックに乗った。
 
 Sは近くで釣りを続けている。私は一人漕いでいった。太平洋横断に挑むかのように孤独で恐怖だった。カヤックが揺れると心も揺れた。ゆっくりとゆっくりと、真横に波を受けないように注意してスタート地点の砂浜にたどり着いた。
 
 結局、2人とも何も釣れずに帰った。


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