イワナ 3


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 大野の白く長い冬が揺らぎ始めると、渓流釣りは解禁になる。

 大野に通って1年ほどになった。地元に何人かの友人ができた。彼らは釣りを始めて数か月なのにすでにイワナを釣っているという。しかも、1匹や2匹ではなく2桁を越えていた。私はまだ1匹も釣ったことがないというのに。
 地元だから何度も行けるとはいえ、私も数回行っている。しかし、釣りの経験は私の方が長い。イワナは地元の人間にやさしいのか。山に住む人の感覚がイワナを釣らせるのか。何はともあれ一緒に釣りにいこうということになった。
 
 春の川に入るためにはウェーダーが必要になる。大野に一軒しかない釣具屋に足を運んだ。がらんとした店内には妙に艶かしい老女が店番をしていた。緑の髪の色で胸元の開いたドレスを着て、朝からしっかりとメイクをしている。釣具屋とスナックでも兼業しているのだろうか。ともに水商売ではある。
 狭い店内の隅でウェーダーが埃をかぶっていた。腰までのものとオーバーオールのように胸までのものがあった。腰までのものが安かったので買った。今年の遊魚券も買った。準備はできた。

 翌日の早朝、コンビニの駐車場で集合して雲川へ向かった。アブの強襲を受けた場所である。30分ほど山道を行き、大きなダムを越えて現地に着いた。恐怖のアブはいなかった。
 アブは夏にだけ発生する。私を含めて6人が河原にいた。細い川なので人がいると釣り場も少なくなる。3人ずつ二組に分かれ、私を含む一組は下流へ、もう一組は上流へと向かった。

 初めてウェーダーを着ておそるおそる川に入った。春の川なのに冷たくない。ウェーダーが完全に水を遮断している。ブーツの底にフェルトのソールがついていてすべることはない。しっかりと、石をグリップしている。川の中をこんなに自由に移動できるとは知らなかった。ウェーダーを早く買っておけばよかった。

「釣れた!」

 同行するHの声が聞こえた。大きな石がゴロゴロとする足場の悪い河川敷を歩いて声の方へと近づいた。銀色のものが見えた。15センチほどのイワナだった。真近で見る初めてのイワナだった。
 銀と黒と緑が混ざった不思議な光沢を帯び、だんだんと腹にかけて白くなり、腹は無防備なほどに白い。全身にはまるでポール・スミスのシャツのような、かわいく、規則正しい、白い水玉模様が重なっている。腹の方はまるでイワナが恥ずかしがっているかのような、紅色の水玉模様が混ざる。
 海、池、湖と今まで魚を釣ってきたが、あきらかに色彩の系統が違う。神は魚の着色において、渓流ではまったく違う方法を試したのだろうか。なんと美しい色なんだろう。

 ほどなくもう一人の同行Kも釣り上げた。同じサイズのイワナだった。これだけ釣れるということはイワナは天然記念物ではないということだ。あとは私だけである。イワナはいる。でも、釣れない。ポイントを探そうと水の中を歩き回っていると急に足に冷気を感じた。水温が変化したかと思ったがあまりにも急激である。ウェーダーのどこかが破れて水が浸水している。靴の中が少しずつ水で満たされていく。足が冷たい。しかも、足が重い。これは釣りにならない。陸にゆっくりとあがり、ウェーダーを脱いだ。膝下に穴が開いていた。

 TとHはどんどん下流へと歩いていく。私は陸をゆっくりと歩く。まったく釣れる気配がない。私は相変わらずスプーンを使っていたが、二人ともミノーを使っていた。
 ミノーとは小魚を模したプラスティック製のルアーである。小指ほどの小さなミノーを使っていた。こんな渓流でミノーで釣れるということにびっくりした。ミノーはブラックバスや、スズキのような獰猛なフィッシュイーターたちに使うものと思っていたからだ。
 渓流と言えばスプーンというのが頭の中にずっとあった。イワナという小さな魚に対して、より小さな魚を食わせるのか。ミノーなどまったく持ち合わせていない。
 
 さらに二人は赤や緑などの色付きのラインを使っていた。だからどこにルアーが着水し、どこを流れているかわかる。私は透明のラインを使っていた。イワナは釣り人の気配を機敏に察するという。色付きのラインだとバレてしまうと思っていた。
 しかし、白波が立つ瀬にルアーを投げ込むといったことが多い。ラインが透明だと、背景に溶け込みルアーがどこにいったかわからない。着水のタイミングも音やなんとなくの感覚で察知していた。確かにこれではルアーのアクションに差は出る。

 細い支流を登っていった。藪のトンネルを抜け、人が一人歩けるかのかの細い流れを上がっていくと、視界が開けて落ち込みがあった。その下は直径5メートルほどのプールになっていた。

「ここ絶対釣れますよ。はじめにどうぞ」

 Hが場所をお膳立てしてくれた。

「ミノーなら絶対釣れますから、貸しましょうか?」

 さらにKがもう2膳目ももってきた。KとHが見守るなか、スプーンをミノーに差し替えた。見られている、待たしている、と思うと焦って手元が狂うものである。何度か失敗をしてようやくミノーをセットした。

 私はミノーを投げた。ポイントのずいぶん手前に落ちた。緊張してうまく投げられなかった。今度は強めに投げた。すると、落ち込みのはるか上の木にひっかかってしまった。力が入りすぎてしまった。高校の時、私はテニス部だった。大事なポイントがかかった時のサーブを思い出した。今回はダブルフォルトだ。そう、私は本番に弱かった。

 人に借りたミノーだ。しかし、それを回収しに行くと魚にバレてしまう。ミノーは絡まったままにしておき、Kに次を譲った。Kは軽やかにポイントに投げた。魚がヒットした。20センチほどのイワナが釣れた。次にHが投げた。18センチのイワナを釣った。その後、私はルアーを回収した。
 
それからしばらく釣りを続けたが結局、私は何も釣れなかった。KとHで3匹ずつ釣り上げた。下流に行ったグループもそれぞれ2匹ずつ釣れたようだ。

 釣れなかったのは私だけだった。
 
 


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