イワナの呪いが解けたからだろうか、ウェーダーを手に入れたからだろうか、私は川で自由になった。釣果が上がり、イワナを何匹か釣ることができた。次は同じ渓流の雄、ヤマメに挑戦することにした。
山深ければ深いほど、魚影は濃いと思っていた。だから、私は山奥へと向かった。イワナの場合は確かにそれがあてはまるが、ヤマメは大野の平野部の方が釣れるそうだ。生息域が違うのである。イワナを釣りに行こうと思うと、大野の中心部から車で30分ほど走り、山の方に行かなくてはならない。ケータイも繋がらないことが多い。熊が出る可能性もある。ヤマメは10分も移動すれば釣り場に到着する。ケータイも繋がって安心だ。
大野の郊外を流れる真名川へと向かった。河川敷が公園になっていて、ゲートボール場が何面かある。そこに車を駐めて川に入った。
川の真ん中の浅瀬を歩く。広い空が広がっている。日光があたり、丸い石が光を帯びている。山奥の石たちは尖っていた。山から崩れてまだ新入りが多かったのだろう。長い間、この石たちは川の中にいた。人間も石も、時の流れが丸くするのだ。そんなことを考えながら歩いていると、苔がついた丸い石で滑ってバランスを崩した。人間は丸くなったといっても、今度は苔がつくのだ。Like a rolling stone, 安心してはいけない。
上流の少し先にある深みに向かってスピナーを投げた。パクっとスピナーをひったくるようなあたりがあった。少しだけ重みを感じる。流れの中から銀色のものが出てくる。手の平ほどの小さなヤマメだった。
体全体は銀色で下半分にだけうっすらとオレンジが塗られている。縦の楕円がエラの少し後ろから尾鰭まで4つ配置されている。その楕円は虹のような、コバルトブルーで、下半分だけオレンジとブルーが混ざる。本当にどうしたらこんな配色が生まれるのかと、神の技を感じざるを得ない。漢字で書くと、山女魚。オスでも山女魚。確かにヤマメの美しさは女性的である。魚の中でヤマメが最も美しいと思っている。
対岸に向かって投げた。ちょうどギリギリに着水した。いいキャストだ。流れに乗って金属のブレードが回っている。リールを巻くと、スピナーは流れに押されてU字を描きながらルアーがこちらに戻ってくる。ちょうどUの頂点に差し掛かったあたりで、まるでシャア専用ザクのように急に魚が横移動して現れて、パクッとルアーを食べた。先ほどよりも重い、手応えがある。流れにも乗っているから、抵抗がある。
上がってきたのは15cmほどのヤマメだった。さっき釣ったヤマメと比べ、あの美しい模様は全体的に薄くなっている。Photoshopで彩度を半分ほど下げたようだ。顔つきもいくらか精悍になっている。
ヤマメは大きくなればなるほど美しい模様が消えていく。30cmを超えるとただの銀色になる。下アゴが出てより獰猛な姿になる。その見た目はもう銀鮭だ。ロシア人女性のように、妖精のような美しい少女が、すぐに太ったおばさんになる。
もう10匹以上は釣れただろうか。満たされすぎてこの後、何か悪いことが起きるのではないだろうかと、帰りの車は慎重に運転した。
ある5月の気持ちの良い日、大野に名人が来て、釣りを教えてもらえるので来ないかとTに誘われた。タイミングよく大野で仕事がある時で、行くことにした。その名人は大嶋さんといい、近くの坂井市に住んでいる。自分でルアーをつくり、ルアーメーカーも経営している大嶋さんと大野在住のアングラー数名で川に入りながら、ポイントや魚の習性などを教えてもらう。
ヤマメは、酸素量が必要な魚であるため、流れがあるところを好む。まず、これが基本だ。次に、エサをラクして食べられる所にいたい。「ラクして生きたい」これは全生物に共通する願望かもしれない。本当の自分を探すために旅をするヤマメ、自己実現のために激流に飛び込むヤマメなんていないだろう。
もっともわかりやすいポイントは落ち込みである。水の流れが一つになってそこに落ちてくる。つまり、エサもその流れに乗ってやってくる。また酸素量も多い。次に、流れ込み。そして、流れのはじまり。流れの緩やかな場所に傾斜が出て急に強くなる場所である。その流れの中の大きな石の付近にヤマメはいる。そして、流れのはじまりの上流ほど大きなヤマメがいる。上からエサが流れてくるので、いちばんいい場所に大きなやつが陣取るというわけだ。最後に、流れのある深み。ヤマメがここを好むというよりは身を隠すのにちょうどいいからである。ヤマメだけではなく、魚全般にいえるが、鳥は脅威だ。大きな魚ほどその姿が鳥から見つけられやすい。だからこそ、深みが必要となる。
ということを習いながらも、私はいつもの癖でゆるやかな流れに投げていた。対岸のテトラポットに深くなっている淀みがあってそこに投げた。すると、大きなあたりがあった。ブルブルと震えている。25cmのヤマメが釣れたのだ。
「そんなところに僕は投げないけどね、投げた君がえらい」と大嶋さんは言った。
ちょうど昼時になって釣り教室は終わった。昼飯を食って解散となった。私と大嶋さんはそのまま帰る方向が一緒だったので、コーヒーを買いに行こうとコンビニに行った。アイスコーヒーを飲みながら大嶋さんはファミマの駐車場でロッドを持って、投げ方を教えてくれた。釣りを教えるのが本当に好きな人だ。
大野でしか渓流釣りをしたことがない私が、ついにほかの川に入る日がきた。 宮城県加美町、仙台から1時間ほど西へ行った奥羽山脈の入口である。ここに仕事で行くことになった。調べてみると川がたくさんある。しかしながら、どんな川があるかわからない。遊漁券も買わなくてはいけない。何よりウェーダーを持っていくのが大変だ。「加美町 釣り」と検索すればするほどに情報が出てくる。スーツケースの左にスーツと革靴を、右にウェーダーとウェーディングシューズを詰めた。町長に会うためにスーツを用意し、釣りをするためにウェーダーを用意する。私はいい人生を送っているような気がする。
加美町に到着したが台風が来ていた。せっかく大きな荷物を持ってきたのに何もできないかもしれない。しかし、翌日は晴れたので、加美町を流れるいちばん大きな川、鳴瀬川に入った。水は濁って急だった。状態はよくない。しかし、この日しか釣りをする日がなかった。流れが速く、川の中に入るのは危ない。岸から釣りをするだけにした。少しやってダメなら帰ろう。
橋脚付近に魚がいそうだったが、大雨で流木が絡まりあって、ルアーを投げ入れるスペースがない。上流へ歩くと、大きな石が顔を覗かせていた。一応と思って石の少し上流にスピナーを投げてみた。流れが速い。水は茶色く濁っていて、スピナーは全く見えない。ちょうど石の上流にUの頂点がくるようにイメージして投げる。そして、イメージ通りその頂点が来たところで、激しいあたりがあった。魚が首を振っている。流れが早いからか、魚が大きいからか、重い。急な流れに負けないように慎重にリールを巻く。細い竿がしなりにしなっている。今にも糸が切れそうだ。ラインは5ポンド、この流れの速さまでは計算していない糸の強度だ。糸の緊張を一定に保ちながら、焦らず、ゆっくりとリールを巻き、じりじりと岸に近づけた。魚が姿を現した。デカい。早くタモに取り込んで安心したかったが、川に身を乗り出すのは危ない。慎重にリールを巻いて岸のギリギリまで寄せた。
魚をタモに入れた。30cmを超えた尺ヤマメだった。幼年期の美しさは消えている。全身が銀色で、下アゴが出ていかつい。それにしても、こんな急流にヤマメはいるのか。どれだけすごい筋肉をしてるんだ。
少し上に同じような丸石があったのでまた投げた。丸石の向こうにスピナーを投げ、ちょうど円弧の頂点が丸石のすぐ後ろに来るように巻いてくる。さっきと同じイメージだ。すると、またぱくんと食った。今度もでかい。かなりでかい。流れと体とヤマメの引きが一緒になる。竿がしなる。急いで巻き取る。流れの強い川に落ちぬよう気をつけながらタモ を伸ばして魚を獲得した。さっきよりもひとまわり大きなヤマメだった。2投連続で大きなヤマメが釣れるとは、私はどうかしている。
大野で学んだことが加美で活きた。ヤマメ、いや、渓流の釣り方を私は理解しつつあった。私が今まで一所懸命狙っていた水の淀んだ場所は、イワナもヤマメも好まぬ場所だったのだ。いたのはウグイだけだった。ブラックバスがそういう場所を好むので、ずっと淀みを狙っていた。それが大きな誤解だった。
こんなところにいたら流されてしまわないだろうか、と思うほどの流れの中にヤマメはいる。イワナは流れが少しある場所で、岩陰に隠れている。魚によって川のお気に入りの場所が変わる。当たり前と言えば当たり前だが、私にとっては大きな発見だった。
渓流釣りは「釣り上がる」ことが基本である。魚はいつも上流を向いているため、下流から上流へと進みながら釣りをしていく。「釣り下がる」と魚に姿が見られてしまうからである。だから、ルアーは上流に投げるのが基本である。(それを釣り用語で「アップストリーム」という)。ただ、上流から下流にルアーを流すため、ルアーが流れと同じか、少し速いぐらいでないと動きが不自然になってしまう。目の前を素早くルアーが通り過ぎるため、魚が食べるチャンスは一瞬となる。
ヤマメもイワナと同じように釣り上がったが、イワナがいる川と違って幅があるため、上流の斜め上(アップストリーム クロス)に投げていた。時には下流に向かって投げることができた。だから、ヤマメは長くルアーが見えるのだろう。それが釣果に繋がっているのだ。イワナとは相性が悪いが、ヤマメはどうも相性がいい。
大物が釣れると、時々大嶋さんにメッセージを送った。そんな大嶋さんが先日亡くなられた。前の私のニッコウイワナの記事をFacebookで投稿した時に「いいね!」をしてくれた。その数日後のことだと思う。
大嶋さんは今頃、三途の川でルアーを投げているだろう。