わたしには大切な記念日がある。
家族の誕生日など、わたしの大切な人のための記念日もあるけれど、それ以外にも、自分にとって忘れたくない日を記念日にしてきた。
先日、そんな記念日を一つだけ捨てた。
わたしにとって、4月12日は「うどん」記念日だった。
なんのことはない、新横浜のスケートリンクの近くにあるうどん屋さんに行って、うどんを食べ、帰ってくるだけである。
行くのはもちろんわたし一人だけ。でも、注文を受取り、席に着くと、目の前にはいつも「社長」がいる。
目の前の社長とは、わたしが社会人になるきっかけを作ってくれた佐藤善行社長だ。
でも、そこに社長の姿はない。思い出の中でだけ、わたしの向かいの席に座っているのだ。
◆
今から28年前の春、わたしは自分の才能がないことに気づいて音楽学校に行くのをやめた。親不孝で身勝手な決断だった。
それからは、日々、何をしているのか分からない夢遊病者のような暮らしが続いた。
1年が過ぎ、夏が来て秋が終わろうとするある日、ふと折り込みチラシにアルバイトの求人広告を見つけた。
何となく眺めていたわたしはある1社に目を止めた。それが佐藤社長の会社だった。
仕事内容は灯油とジュースのルートセールス。なぜか気になり電話をかけてみた。
明るい女性事務員さんの声。不思議と期待が込み上げてきた。
第3京浜の港北インターそば、畑のど真ん中にある、古びたプレハブの事務所。
会ってくれた佐藤社長は、今のわたしよりも若かったけれど、その表情は経営者としてさまざまな局面を切りぬけてきた年齢以上の貫禄が感じられた。
「いい加減仕事しなきゃ! 来るんだったら、すぐおいで」
親のすねをかじるのも心苦しく、そろそろ難しいと思っていたわたしは、その声に背中を押されるように社長の下でバイトを始めることにしたのだ。
今にして思えば、ここでの出会いがわたしの人生を大きく変えたのだった。
◆
わたしが仕事を終えて帰ってくると、佐藤社長は自分の椅子をわたしの方へくるりと回し、
「廣岡さん! あのね!」と切り出す。
それから、会社経営の面白さ、人を使い組織を運営する苦労、資金繰りの悩み、そしてそれらの苦労を通して得られる喜びと充実感について、独特の飾りのない言葉で、自分が満足するまでわたしに語ってくれたのだった。
「成長は失敗とチャレンジから生まれる」
言葉ではなく、行動でそれを教えてくれた社長の姿勢に、わたしも憧れるようになった。
そして4年。
「もっと、新しい世界でチャレンジしてみたい」
わたしの言葉を社長はどのような気持ちで聞いていたのだろう。
「それならすぐにうちなんか辞めて行動に移しなさい!」
社長はそういって、そっけなくわたしをクビにした。でも、それは社長なりの親心だったのだ。
その証拠にわたしが2か月後、必死の就職活動ののち、取次の関連会社への就職が決まると、誰よりも喜んでくれたのは社長自身だったからである。
◆
それから15年。
ずっと社長との付き合いは続き、わたしが出版社に転職したと知ると、
「自分の本を作ってほしい」
と言ってきた。自らが試行錯誤して築き上げた経営理論を本にしたいとのことだった。
わたしの本づくりの師匠だった村山惇さんは、
「お前しか社長の本は作れないぞ」
そう言って仕事を任せてくれた。幸運にもそれがわたしにとっては一から携わる初めての本づくりだった。
けれども、わたしは社長に本を手渡すことはできなかった。
完成を待たずして社長は遠くへ行ってしまった。
その前の月、ちょうど遅めの桜が散り始めたころ、社長から本の打ち合わせで呼び出されて会社へ伺った。
ついこの間までのふっくらとした表情がうそのように頬がこけてしまった社長の顔を見るのが辛かった。
昼ごはんの時間になり、おそるおそる社長に何か食べたいものはあるのか聞いてみる。
「うどんが食べたいな!」
ネットで探してみると、新横浜のビジネス街にうどん屋がある。
社長は銀行口座の解約のついでに食べに行こうと言う。わたしは助手席に社長を乗せて車を出した。
そのうどん屋は自分で好みのうどんを注文し、一列に並んだ天ぷらやいなりずしなどを自由に取って、最後にレジで会計するという、いま流行りのファストフード形式の店だった。わたしは残された貴重な時間をこんなところで過ごすのかと思うと食傷した。
社長はそんなことも気にもとめない感じで、素うどんとミニ天丼のセットを注文した。
「いただきます!」
半分ほど残して社長は箸を置いた。
「廣岡さんに会ったら元気が出てきた! こんなに食べられたよ!」
そう言って残りをわたしによこした。わたしは胸がつぶれる思いがした。
それでも社長のうれしそうな顔を見て、少し救われた。
食事のあと、今度は鴨居の信用金庫に行くと言って、駅の小さなロータリーまで送った。
元気に手を振り、何度か向き直りながら小さくなっていく社長の後ろ姿をわたしは心に刻みこもうと必死だった。
そして2012年5月、社長はいなくなった。肝臓がんで余命宣言されてからわずか3か月足らずの闘病生活だった。
◆
本は亡くなってから2か月後に出来上がった。
もっと早く出してあげればよかったと、墓前に供えながら後悔だけが残った。
死んでから少しして、毎晩会社帰り、ビール片手に鶴見川の土手に立ち寄り、向こう岸の街の明かりを眺めながら社長と対話をする日々が自然に始まった。
自分の人生や仕事の悩みや愚痴をなんとはなしに社長に投げかける。
「それおかしくない?」
「もっと自分の声に正直になるんですよ、廣岡さん」
社長の声がわたしの頭の中にこだまする。
そんな言葉遊びのような日々が秋まで続いたあるとき、ふと社長がわたしにこう言い放った。
「廣岡さん! ずっと死んだ人のこと考えててもしょうがないでしょ、 ハハハ! 忘れちゃいな!!」
これはわたしの正直な思いなのか、社長の思いなのか……。ぐるぐるとわたしの頭の中に葛藤が渦巻いた。
それからほどなくしてわたしは社長と対話するのをやめた。自分の後ろめたさに嫌気がさしたのだ。けれども、うどん記念日だけはずっと続けていこう、毎年そう思いながらここまで来たのだった。
そして今年も同じ日が来た。
朝、身支度をしながらずっと食事をしたあの日のことを考えていた。
10時過ぎに家を出て、桜が続く丘陵を遠くから眺めながら駅に向かい、新横浜とは反対方面の電車に乗った。
わたしにとって必要なのは記念日でも、感傷的になることでもない。わたしの中に生きている社長の思いを胸に抱いて、生き残った者として今日を明日につなぐことが何よりも大切なのだと言い聞かせて。