先月このダイアリーで蛾の死について書いた。
今日、再び同じことを考える出来事があった。
久しぶりに事務所に掃除機をかけた。
そもそもあまり人が来ないのでそれほど汚れてはいないのだが、それでもタイルカーペットを敷き詰めた床には、細かいゴミが目立つようになった。
決算でずっと忙しくて掃除機をかけていなかったのだ。来客もあるのでちょうどいいと、掃除機のスイッチを入れ、入り口から部屋の中心へと移動した時だった。ピョンと何かがジュータンの上で跳ねた。
わたしは始め、ゴミが跳ねたのかと思いもう一度ノズルを向けたその瞬間、それが小さなクモだと分かった。
でも、間に合わなかった。掃除機の力でクモは一瞬にして吸い込まれてしまったのだった。
米粒よりも小さなクモだから助かる見込みはないだろう。
わたしは自らの手で彼の命を奪ったのだった。
掃除機をかけ続けながらわたしはクモに詫びた。それから、頭にある思いが湧き起こった。
わたしがクモの命を奪ったことを意識した瞬間――クモの死はわたしの生になったのだと。
クモの死がわたしの生であるならば、わたしの死は誰かの生でもあるのだと。
わたしたちは、死というものは特別に意識した身近なものの死に対してしか、そのつながりを意識していない。世界で日々繰り返される数多くの死は、自分の生死とはおよそかけ離れたところで起きていると錯覚しているのではないだろうか。
身近なものに対しては死を悼み、その死を自分の中に重ねようとするが、これからわたしが食べようとしている殺された肉や魚もまったく同じはずなのに、そこには思いがおよばないのはなぜなのだろう。
「わたしは動物の殺生に加担しない」という主義の人ですら、ジョギング中にたくさんのアリや虫を知らずに踏みつけているのかもしれないと思うと、今こうしてわたしたちが許されて生きている意味をどう考えたらいいのか、正直理解できなくなるのだ。
ただ一つだけ言えるのは、こういった矛盾をはらんでいることこそ、わたしたちが存在しうる理由なのだろう。だからこそ、わたしたちは生きる悲しみを常に背負っていかなければならないし、ことある毎に生の矛盾について真摯に向き合い続ける必要があるのだと思う。
宮沢賢治が「よだかの星」で描いたよだかは、実は矛盾に苦悩する自分自身の姿だったのだろうと気づいた。
鷹からいじめられ、命を奪うと脅されて生を悲観するよだか。しかし、自分自身も小さな虫たちの生を奪って生きている矛盾に気づき、最後は命を捨てて星が瞬く世界に行きたいと願い、残された力を振り絞って大空を駆け抜けていった。
賢治は自身の思いをよだかに託し、書き残しておきたかったのかもしれない。
だって、今日のような人生におけるとても大事な出来事ですら、人はいとも簡単に忘れるのである。
賢治のような物語をわたしは書くことができない。
けれども今日のことはずっと忘れないよう、ここに書き留めておきたいと思う。