島の冬は寒い


 

 

 東京から飛行機に乗って奄美大島を経由し、喜界島に着いたのは、2017年2月1日の夕方だった。天候は曇り。梅雨を除く春から秋の季節の島の雰囲気とは異なり、海の青さもぱっとせず全体的に鈍色がかっていた。
 南の島の雰囲気は一切なく、どこにでもある冬の光景。そこに吹きつける少し強めの北風は体感温度を低くした。飛行機を降りて呟いた。
「冬だな」と。
 
 島に着いた後、島の不動産屋に鍵を受け取りに行った。島で家を借りるには二つの方法がある。
 一つは集落の方々に直接交渉をして、空き家を紹介してもらう方法。不動産屋を介さないため、家賃を抑える事ができるメリットがある。
 デメリットとしては、島に知人などがいないと、そもそも交渉ができない点。契約書が特に無いため、大家の気分次第で賃貸を中断されてしまう可能性があること。
 自分にとっては、将来的にみて長く同じ場所に住み続けたいという思いがあるので、不動産屋を介することにした。不動産屋から、鍵を受取った後、水道やガスの開栓が今日は無理だろうから、せめて電気だけは繋がるようにしておこうと、九州電力の営業店に向い、電気の利用開始手続きを済ませた。
 その後、家まで送っていただく事になったのだが、道中、気を利かせてくれ、回り道をし、島の北東部に位置する早町集落のスーパーに連れていってくれた。

 噂だけは聞いていたが、今回初めて行くこのお店、地元の漁師の方が釣った魚を提供しているので刺身だけは外せない。
 意外かもしれないが、島の中心街のスーパーで買える魚は地元の漁師が釣ったものが陳列されている訳ではない。
 島には、魚市場が存在しないため、釣った魚は氷が詰まったコンテナに乗せられ鹿児島に送られるらしく、島で売られている魚の多くは、鹿児島から送られてきたものが陳列されている。
 だが、ここで売られている刺身は種類こそ多くないものの漁船で取れた魚を調理しているため新鮮で、割安な刺身が一人前から販売されている。 ほかにも店内を見渡すと、惣菜や、お弁当が安い値段で販売されていた。惣菜については、一人暮らしにちょうどよいサイズであり、利用頻度は高くなりそうだと感じた。
 とりあえず、この日は、シビの刺身のほか、惣菜、水、酒に、朝食用にパンを購入し、あとは売り場を回って野菜や肉などの相場チェックをして店を出た。

 

 

 不動産屋の担当者に自宅まで送ってもらい、家のチェックを行った。
 以前に内覧した際、大家さんが家具や電化製品を廃棄しようとしておられたので、そのまま置いておいていただけると助かる旨をお伝えしていたが、家電など壊れていたので処理したみたいだよと聞いていた。ただ、実際、家にあがってみると、冷蔵庫、電子レンジなどの電化製品が置いてあった。離島は引っ越し費用がかなり掛かってくると聞いていたのでこれは本当に助かった。
 例えば、大阪に住んでいた独身男性が引っ越した際には、40万円ほど掛かったという。値段が掛かる理由は、距離はもちろんだが、陸続きでないことによる運搬方法にあるだろう。
 家から港まで配送し、コンテナを借り、港でコンテナへの積み込みが行われ、大阪からだと奄美大島の名瀬を経由して喜界島に運ぶことになる。喜界島の湾港に届いたのち、次は引っ越し先までの陸送が必要な訳で、40万という話も頷ける。
 東京からの場合は、奄美大島行きの直行便が現在では運行していないため、さらに複雑になり、鹿児島県の志布志港、鹿児島港を経由して、喜界島に届けられる。費用はかなり掛かってくるはずだ。現地で購入した方が安くなるということは想像にたやすい。
 本土であれば、インターネットオークションなどで安く購入する方法もあるが、これらでよく利用される配送方法は、喜界島ではサービス対応外となっているため、オークションで落札したとしても、配送する手段がない状態となる。少しずつ新品を買い揃えていくしかないと覚悟していたが、この心配が無くなったわけだ。

 不動産屋の担当者は、家電が置いてあるのを見て、まるで自分のことのように喜んでくれた。
 それぞれの家電が問題無く動作することを確認し、部屋に破損箇所がないかをくまなくチェックした後、島での生活をはじめるなら、いろいろ手続きをしないといけないだろうから、また明日来ますよ、と言ってくれた。部屋探しの時から、入居の時まで担当者は本当に親切にしてくれた。

 その日の夜は、東京と喜界島での二地域居住がようやくはじまることを実感しつつ、黒糖焼酎で晩酌することにした。
 家の全ての電気を点け、各部屋をじっくり眺め、部屋ごとに黒糖焼酎を一杯ずつ呑みまわった。
 部屋の造りは和室が3部屋と洋室が1部屋に、ダイニングキッチンの4DKで、それに車が2台停められるガレージが一つと、釣った魚を捌ける大きな調理台と、冷凍庫が備わった倉庫が一つ、庭に面した場所にはウッドデッキがある。東京で借りている1DKのマンションとは、まったく異なる大きな家。ここに住むことで、東京での暮らしとは全く別な生活が待っているのだという実感。
 酒を手にしながら、家の全てを回った頃にはいい感じで酔いは回り、東京へは戻りたくなくなっている自分がいた。
 移動で疲れているのもあってか、その日は早く寝ることにした。

 

 


 家にはまだ、布団はなく、東京から寝袋を持ってきているだけだった。ベッドの上に寝袋をおいて寝ることにしたのだが、意外にも冬の島は寒かった。
 寝袋だけでは寒くて寝られそうにないので、服を着てその上からダウン、ソフトシェルを着て寝た。それでも寒いと感じ、暖房をつけ、寝袋の中に頭を埋めてようやく寝ることができた。
 東京で暖房をつけることはあまりない自分が、まさか南の島でここまで重装備で寝ることになるとは想像すらしていなかった訳だが、冬山装備を島に持ってこなかった自分を恨んだ。

 寒さで夜中、何度か目覚めたものの、翌日の朝、目が覚めたのは朝の6時頃だった。まだ、眠りが足りない気がしたが、テレビの音で目が覚めた。昨日は疲れてテレビをつけていたことすら忘れて眠ってしまったようだ。
 東京ではあまりしないことだったが、疲れと環境が変わったことで、生活のリズムが掴めていないのかもしれない。
 目を覚まそうと家中のカーテンを開けたが、外はまだ暗かった。東京と比べると、日の入りは1時間遅い。
 寒さと静寂、今日は街に出てストーブを探さなくては。

 朝食の準備を終え、食事を摂りながら、朝のニュースを見ていた。
 自分は旅先でローカルニュースを見るのが大好きだ。そこには、東京にいるだけでは届いてこない、当地のミニマムな出来事に触れるチャンスがあるからだ。
 1944年に米軍に撃沈された学童疎開船の「対馬丸」に乗船し、犠牲になられた方々の遺骨発掘調査がはじまったことや、奄美市と龍郷町で郵便局の配達員が住民見守り協定の締結を行ったことなどが報じられていた。
 高齢化が進む島社会。島の至る所を巡り、人との接点をもつ配達員が業務に支障のない範囲で見守りも行えれば、非常に合理的ではないか。内地でもこういった取り組みは行われている訳で、離島でも増えていくことだろう。

 天気予報になると、桜島が噴火した場合の灰が降下する場所の解説をしている。自然に向き合い生きるということ、それが鹿児島にあるのだということを実感した。だからこそ、鹿児島の人たちは、桜島が噴火したとしても慌てることはない。日常的ということもあるが、事前予測の徹底、そういったものおかげか、心構えができているといえる。
 また、奄美群島の天気予報が、申し訳程度な予報ではなく、しっかりと解説されていることに注目した。当たり前と言えば当たり前の話なのだが、朝のニュースから目に入るものはすべて新鮮だった。

 そうこうしているうちに、外が明るくなりはじめたので海で朝日を眺めるために外に出る。

 

 

 すでに日は昇っていて、うっすらと香る潮の香りに、耳を澄ませば波の音。雲の間から姿をあらわす太陽とその光景に神秘さを与える光芒、一面に広がる水平線は僅かに弧を描き、海面に映った太陽の光は、自分にめがけて一直線の絨毯を敷いてくれた。
 その様子は島が自分を受け入れてくれたようだった。
 電車や車で移動して見に行く訳でもなく、こんな景色が家のすぐにあるという贅沢さ。
 数時間、日が昇る風景を眺めた。
 変化する空の階調に雲の形、ランダムな模様を常に描く波。島ができたのは10万年前、珊瑚の隆起で島は生まれた。私が家を借りている集落は2万年前に隆起しているのだろうか。
 それ以降から計算したとして、完全に一致する景色が発生する確率はどんなものなのだろう。途方もないスケール感に呑み込まれてしまっている自分がいた。

 日が高く昇った頃、不動産屋の担当者が家に来てくれて、生活に必要な手続き関連についてアドバイスをくれた。
 ガス会社にガスの開栓の連絡をいれ、その後、役場へ連れていってもらい、水道の開栓手続きをした。
 役場は島の中心地から少し離れた高台にあり、家からは車で10分程度の場所にある。せっかく中心地に出てきたので、買い物などをしようと街まで送ってもらい、その後、ご近所の方々へのご挨拶用のタオルを買いに、ホームセンターに向かった。担当者は、
「ゆっくり買い物してきなよ」
と言ってくれたので、お言葉に甘え買い物をすることにした。

 小規模な店舗とはいえ、鹿児島を中心に展開するホームセンターだけあって、品揃えは豊富に感じた。タオルを買った後、ストーブが置かれた一角で値段などをチェックしていると、島の知人が声を掛けてくれた。
「久しぶりだね。いつから島に?」
 島に家を借りたことや世間話をし、別れ間際に質問をした。冬場は家でストーブを使っているのかと。すると意外な回答が返ってきた。
「使ってないよ。 そもそもストーブすら持ってないしね」
 昨夜、睡眠中に目が醒めるほど寒かったのに、南の島の人はなんとも思っていないのか。確かに喜界島の2月の平均気温は16度程度。とはいえ、昨日の寒さは冬山で天幕をしたかのような寒さだったはずだ。
 以前に沖縄の人から冬はコタツを使っているという話を聞いたことがある。その話を聞いたときには、南の島でコタツが必要だなんて不思議な感じがしたものだったが、喜界島の人たちはそうではなかった。なんとなく逞しさを感じたような気がした。 

 

 

 話はもどり、郷に入れば郷に従え。結局、ストーブは諦め、その代わりに裏起毛タイプの上下作業着、風邪に備え、体温計と炊飯器、タオルを購入し、家まで送ってもらった。
 その後、ご近所へ挨拶回りをした。都会からきた人が珍しいのか、さっとした挨拶のつもりが、それぞれのお宅で「区長から聞いたよ。東京のどこから来たの?」にはじまり、
「仕事はなにをするの?」「酒は飲むの?」「独身か?」
 等々質問され、5分も掛からないだろうと思っていた挨拶回りは、1件あたり10~15分程掛かってしまった。

 みなさん、話し好きな感じでいい人ばかりといった印象だ。家を借りる前に何度も島に来ていて、居酒屋でもよく島の人から話し掛けられていたこともあり、島の人達はいい人という印象が強かった。
 ただ、居酒屋で話し掛けてくれる人は、向こうから好奇心をもって声を掛けてくれている訳で、必然的にいい人にあたっていたのかもしれないと思っていたのだが、近所の挨拶回りをすることで、この島に暮らす人たちには「いい人」という要素が、先祖代々遺伝してきているのではないかと思えた。東京のようにそれぞれが自分に意識が向いているのとは正反対で、隣人、友人など第三者に対して意識が注がれている。

 挨拶回りを終え、生活環境と仕事を行う環境作りを行うことにした。
 まだ、移動の疲れが取れていないのか、身体にだるさがあったものの、新しい暮らしがはじまるという期待感が疲れを吹き飛ばし、目の前にあるタスクを次から次へと潰していった。
 昨日の寒さを考えると、作業着だけでは足りないだろうということで、インナーを重ね着して寒さに備え、眠ることにした。
 その日も寝袋に潜り込んで眠り、夜中に何度か目が覚めたが、昨夜より厚着している分、ずいぶんとましになった。

 翌朝、またテレビの音で目が覚めた。
 また、テレビを付けっぱなしで寝てしまったのだろうか、寝る前のことを思い出そうとしたが、思い出せなかった。昨日と同様、朝食の準備をし、朝のニュースを見る。
 奄美大島で2年ぶりにタンカンはさみ入れ式が行われたという。昨年は害虫ミカンコミバエの緊急防除のため、島外出荷ができなかったため、昨年ははさみ入れ式は行われなかった。過去には、喜界島でもミカンコミバエが発生し、完全に駆除されるまで長い期間を要したという話を聞いたことがある。
 今回の奄美大島でのミカンコミバエの被害は2015年から発生したが、短期間で解決となり、奄美大島の農家の方々もほっとしているのではないだろうか。

 そのほかのニュースでは、徳之島で野良猫が天然記念物のアマミノクロウサギを捕食している場面の写真撮影に成功したという。もともとは人が飼っていた猫が、人間の一方的な理由によって放棄され、野生化した猫が生きるためにアマミノクロウサギを補食しているそうだ。自然を破壊する、若しくは原因を作っているのは人間なのだ。

 叔母から聞いた話をふと思い出した。昔、喜界島には馬がいたようで「喜界馬」と呼ばれ、明治30年代にはトカラ列島の宝島に移入し「トカラ馬」の元になったという。この喜界馬、戦前、戦中は軍馬として利用されていた。
 戦後も農作業や、交通手段、食肉用途で飼われていたようだが、機械化の時代に馬の利用用途は限られるようになり、頭数は減少。昭和50年代頃に絶滅したという。
 人によっては、絶滅まで進んだ理由の一つとして、サトウキビ畑での農薬が原因だったかもしれないという人もいる。真偽については私には知る由もないが、今回のアマミノクロウサギの問題が、喜界馬のような悲劇に繋がらないことを願った。

 ニュースが終わると、昨日同様、外が明るくなっていたので近所を散歩した。
 この日も朝日は綺麗だった。このリズムがこれからの日課になるのだろう。都会とは異なる生活のリズム。朝のひと時を切り取っただけでも変化を感じる。

 散歩が終わると鼻水が出始めた。
 家に帰り、昨日ホームセンターで買った体温計を取り出し体温を測ると37.3度。島の寒さで風邪でもひいたのだろう。この日は休養日とし、ゆっくり眠ることにしたが、午後になり少し散歩をした。
 島の特有のゆったりとした空気を感じながら疲れないようにゆっくりと。家に戻り、昼寝をした後、もう一度熱を測ると37.7度になっていた。自分の場合、昼に熱が上がるのはよくない兆候だ。
 夕方に病院へ行くことにした。病院までの距離は7Km弱。あまり疲れてはいなかったので、散歩がてら病院へ向かえばいいだろう。島の台地を夕日が沈む方向へ、さとうきび畑の中を走る道をのんびりと散歩した。

 

 

 2月とはいえ、陽が当たるとちょうどよい気候だった。空は少しずつ赤焼けしていくなか、時折吹く風はサトウキビを揺らしざわざわと音を立てる。車の走る音もなく、アスファルトで舗装されていることを除けば、数百年変わらぬ世界を歩いているのだろう。

 病院に着き、受付でまずは体温計を渡され、体温を測ったところ39.3度となっていた。
 間違いない、インフルエンザだ。急いで隔離された部屋に移動させられ、検査をするまで部屋での待機を命じられた。
 なんてこった、本土から島にインフルエンザを持ち込んでしまった。翌日には島中に噂が広がり、村八分じゃないか。そんなくだらない想像を膨らませて、医者が検査にくるのを待った。
 どれくらい待っただろうか。意識が朦朧としてくるなか、自衛隊が島全体を消毒する計画が持ち上がったところで、隔離された部屋に医者が入ってきた。
「最近、島でも流行ってるんですよね、インフルエンザ」
 そう言いながら検査を始める。案の定、検査結果は陽性だった。薬の吸引方法や、外出禁止の説明を受けた後、薬を貰い、タクシーを頼んで一週間分の食料品の買い溜めにスーパーに寄ってもらった後、家に帰った。

 全快までにこの日を含め3日を要し、病状が回復するにつれ、寒さは和らいでいった。
 島の冬は寒くはなかった。
 また、体調がよくなりはじめ朝早起きするようになり気づいたのだが、朝6時になるとテレビの電源が自動的に入ることに気がついた。
 過去に大家さんがタイマー設定していたものが残っていたのだろう。


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