第4回 「自分が好きなハットをかぶれ」


 ワイオミング州の何もなさといったら、人に恐怖を与えるほどだ。コーディーから北方のモンタナ州ビリングスに戻る道のりは、行きとは違うルートで、東の方へグーッと回ってインターステイト90を目指した。

 岩と土の大平原を道は下っていく。時速75マイル(約120キロ)で滑走すると、彼方の山脈が腕を広げて待ち構えているようで、そこへ落ちるように飛び込んでいくのはちょっとした覚悟がいる。
 岩肌が剝き出しの山間の道は、インディアンの雄叫びがこだまして聴こえてきそうな寂寥感が漂った。ワイオミング州には1つ、モンタナ州には7つのインディアン居留地があり、先住民族たちがそれぞれの独自の文化や言語を後世に保存しようとしながら暮らしている。白人の入植以来、西進する彼らのあの手この手によって辺境の地へ追いやられていったインディアンは当然各地で反乱や戦闘を繰り広げた。

 

 

 1830年にはインディアン強制移住法が成立し、ジョージア州、アラバマ州、ノースキャロライナ州、テネシー州、フロリダ州といった東南部に住むインディアンは、ミシシッピ川以西への移住を余儀なくされた。

 1万5000人のクリーク族は、徒歩での移動により3500名が亡くなったというし、1万6000人のチェロキー族は1200マイル(およそ2000キロ)の道のりで、感染病や飢えにより5000人以上が落命したという。これが“The Trail of Tears”(涙の旅路)と呼ばれる米国史の悲劇の一つだ。
 1849年に合衆国政府からインディアン居留地というものが提案された。居留地は、英語では「予約」と同じ“reservation”というのだが、保留地であり、封じ込め作戦でもあった。
 これにてめでたしとなったわけでは全然なくて、その後に起きた米国史上最悪の戦争である南北戦争(1861~1865)により、二分された国家は混乱を極め、インディアン居留地も破壊され、彼らへの歴史による翻弄は終わらなかった。かねて結んだ条約は反古にされ、権利は奪われた。
 その頃はまだ白人による開拓が完了しておらず、土地がどこまで続くのか、どれほどあるのか明らかでなかったため、鉱山業、森林業、牧畜業、農業、土地開発業など、それぞれの権益獲得の目的と投機的思惑による奪い合いが、各地でインディアンを巻き込んだかたちで行われた。

 1860から80年代といえば、これまでに紹介したカウボーイの「ロング・ドライヴ」の全盛期であり、バッファロー・ビルが「ワイルド・ウェスト」を興したのが1883年だ。同時期にインディアン部族と騎兵隊の抗争も相次いでいたのである。ケヴィン・コスナー監督主演の大作『ダンス・ウィズ・ウルヴス』も同時代が舞台だ。

 インターステイト90に乗って北へ向かうと、リトル・ビッグ・ホーンという地名を標識で見た。1876年、カスター中佐率いる大部隊がスー族によって殲滅されるに至ったリトル・ビッグ・ホーンの戦いは、一連の抗争の頂点といっていいものであった。
 ステアリングを握りながら、この辺りのいかめしい景色を見ていると、なんだか哀しみを帯びているように見えて仕方がない。もう日も暮れかけてきたし、緑が少なくて、とりとめのないほど広いのがまたいっそう、僕を落ち着かない気持ちにさせる。

 

 

 ちなみにアメリカは、すでにこの時代以前に、ジャパンへは黒船をよこして開国を迫り、不平等条約を結ばせている。白人の欲深さというか、世界戦略の広範さというのには深い深い暗黒を感じる。また、一方、日本人が何をしていたかというと、文明開化の時代であり、岩倉使節団が欧米との不平等条約の改正を試みたり(1878年に渡航)、日比谷に鹿鳴館を建てたり(1883年)といった頃だ。極東の小国が押したり引いたりよくがんばっていたと、先人たちの苦労に頭が下がる思いだ。

 400キロ走って、ビリングスに2日ぶりに戻るとすでに夜だった。眠るだけなので安いモーテルに部屋を取った。
 1階部分には、そこに住んでいると思われる裕福ではなさそうな人や家族が、何組もいた。開け放ったドアから何事か言いつける声や、男性がベッドに寝そべって眺めるテレビの音がもれ聞こえてきた。
 僕の部屋は2階で、廊下は暗かった。なんだか犯罪を働いて逃亡中の人間にでもなった気持ちで、ゴキブリのいるバスルームでシャワーを浴びて、シミのあるベッドでとにかく寝た。昨日はバッファロー・ビルが建てたホテルのスイートを奮発したから、節約のつもりだったのだけど、ちょっと後悔した。

 ビリングスに戻ってきた理由は、2日前には訪ねたい店がどこも閉まっていたからだ。牧場の奥さんであるタミーが「モンタナなら、こことここは行くといいわよ」とオススメしてくれた場所なのであった。
 一つはランズ・ハットという帽子屋。翌日にそこを訪ねた。モーテルと同じメインストリートにあり、手づくりのカウボーイハットを各種、展示販売している。
 僕はすでにカウボーイハットをかぶっていたから買うつもりはなかったし、ビーヴァーの毛を使ったフェルトのハットで1000ドル以上したから手が出なかったのだけど、見るだけを楽しもうと思った。
 カウボーイハットをかぶったアジア人が珍しかったのか、店のおじさんが話しかけてきた。
 「君のハットはなかなかいいモノだね。普通、このハットバンドというのは2プライになっているんだが、これはシングルだな(マニアックな話なので説明は省略)」
 「はい、いただき物なのですが、70年代のアンティークではないかと聞きました」
 彼はどうやら帽子職人のようだ。僕は思い切って相談してみることにした。このハットは、古いものなので形状がやや古めかしくて、ちょいダサだったのだ。具体的には、クラウン(頭を入れる筒状の部分)が高すぎるのだ。
 「なんとかなりませんかね?」
 すると彼は「どれどれ」とハットを手にカウンターの奥に行き、専用の機械でハットに蒸気を当てながら調整をし出した。ハットは蒸気で柔らかくなり、形状を変えることができて、冷えるとまた固まる。しかし、きれいな形に整えるにはそれなりの技術がいる。
 しばらく待つと、おじさんが「ほれ」と返してきた。
 かぶってみると、完璧なフィットだった……。驚いた。
 「クリースのところにへこみを作って、頭がより深く入るようにしてみたよ」
 カウボーイハットには、クラウンの頭頂部とその両脇にくぼみがあるのだが、それをクリースという。その中央部を深くすることで山を低くしたうえで、さらに両脇のくぼんだところにもう一度盛り上がりを作るように加工をしてくれたのだ(再びマニアックな話なのでテキトーにご想像ください)。
 僕はすっかりうれしくなって、おいくらか訊いたのだが、彼は「いや、いいんだ」と手を振った。

 

 

 もう一軒、訪問したかったのはバッカルー・ビジネスという馬具屋だ。
 店は間口は狭いが奥行きがかなりあり、金属の馬具の他に、革のサドルや鐙(あぶみ)のほか、僕にはなんだか分からない道具、そしてハットやベルトのバックルもあった。馬具には繊細な装飾が彫ってあり、美術品のような輝きを放っている。
 バッカルーというのは、カウボーイの語源であるスペイン語の「ヴァケーロ」がそのまま米語になまったものだそうで、主にカリフォルニアやユタなどの西部に、カウボーイよりもバッカルーと呼ばれる方を好む人たちがいるという。
 いかにも道具という、質実剛健なテキサスやそのほかの地域のカウボーイに比べて、バッカルーの道具にはヨーロッパ流の優雅さが見られ、彼らは馬具やバックルの美しさに誇りを持っている。
 ここで詳述はしないが、ハットの形状にも時代性や地域性があり、ここモンタナならモンタナ・クリースという名前の付いたものまである。バッカルーはクラウンの平たいハットを好むと思ったが、この店にはさまざまなタイプがあった。
 その時間、客は僕だけだったので、ハットの陳列を見ながら店の男性に尋ねてみた。
 「バッカルーはバッカルーらしいハットをかぶるのではないんですか?」

 彼の答えは、心に刻んでおくに値するものだった。
 「君がどこ出身とか、周りがどんなのをかぶってるとか、関係ないんだ。『こういうのをかぶってるから、あいつはダメだ』とか、言うやつがダメなんだ。それぞれが、自分の好きなものをかぶったらいいだけなのさ」
 ほんとうに、その通りだと思った。
 何が流行りだとか、これを着なくてはいけないとか、これをかぶったらおかしいとか、日本人はまるでルールのように決めがちだけど、そんなものは個人の好き好きじゃないか。機能を満たすのなら、自分が好きなものを着たりかぶったりしたらいいのだ。
 こんな当たり前のことを、僕はあらためて教えてもらって、視界が晴れやかになったような気分だった。「日本人がカウボーイハットかぶってアメリカを旅してもいいのだ」とお墨付きをもらったような気持ちになって、先ほど直してもらったハットがますます好きになった。

 好きなものは貫いたらいい。
 僕は16才の頃からカントリーミュージックを聴いていて、これを語り合えるのは父親しかいなかった。都立高校にカウボーイハットをかぶって通い、ケンタッキーで大学を出て、挙句の果てに、電通を辞めてカウボーイとしてカナダの牧場で働いている。

 これもひと夏のことだ。とことんやってやろうじゃないかと決意を新たにした。

(つづく)


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