最大の悲劇 ――編集ダイアリー2020年5月14日


 小湊鉄道のツイッターがもめているらしいということをネットニュースで見た。
 ほぼ専任としてツイートしていた担当者によるコンプライアンスに反する書き込みがあり、それがきっかけで今回の騒動に発展したそうだ。

 気になってアカウントを見てみる。
 フォロワー数、およそ12,000人。
 企業の公式アカウントといえども、これだけのフォロワーを集めるのにたぶんそうとうな苦労をされたに違いない。
 きちんと受け入れられる内容でなければこの数字にはならないのは、ツイートする者なら誰でも理解できるはずだ。

 投稿を読んでみようかと訪れてみると、最新投稿が4つほど残っているだけで、あとはすべて消されてしまっていたのである。

 担当者の小さな最後の抵抗が読み取れた。
 すべてのツイートが消されたのを知って、その直後、担当者がパスワードを勝手に変えてしまったらしい。
 それだけが残ったままだ。

 内容については消されてしまったのでわたしには知る由がない。
 でも、小湊鉄道はツイートの削除とともに、間違いなくこれまで築いてきた大切な時間を失ってしまったように思われるのだ。
 そして、コンプライアンス的に、ほんとうに問題があったのか、なかったのか、だれもが正しくチェックする機会を失なった。

 いいところはそのままに、悪いところはその部分が良心的なプロセスを経て正されるということが周りに理解されないと、一気に信頼を失ってしまう。
 今回のように闇に葬ってしまおうという行為は、企業そのもののコンプライアンスが乱れていることの証左であることに、この会社自体が気づいていないという、いちばん最悪のパターンを露呈してしまったように思う。
 仮に別の担当者が独断でやったとしても、会社がコントロールできていないという意味では、まったく同じことである。

 SNSの世界ではけっして容認することのできない、さまざまな文章がひしめいているのは周知に事実だ。
 でもそれを簡単に消し去ってしまえばよいという考えにはわたしはとても違和感を感じる。
 
 文章とはそれを記した者の、生きた記録である。
 国や組織やさまざまな境遇を超え、広大な宇宙に漂うあまたの星のようなものなのではないだろうか。
 その中からほんとうに大事な輝きを見出し、伝え続けることがわたしたちに与えられた業なのではないだろうか。

 最近「都合の悪いことは消し去るか、消し去ったことにするのがいちばん」と言わんばかりの出来事が、政治の世界でも起きている。
 しかしその行為のいずれもが、事実として浮かび上がってくるのはなぜだろう。

 事実は人間の思いがそこにある限り、簡単に消し去ることなどけっしてできないのだと思う。

 業務といえども、内容は完全とはいえなくても、一人の人間が思いを込めたものが簡単に消されて二度と見ることできないということに、デジタル時代の悲劇と恐怖を見たような思いがするのである。

ときどき飼い猫「ひじき」の表情にどきりとさせられる。それは人間の言葉にも勝る。

ときどき飼い猫「ひじき」の表情にどきりとさせられる。それは人間の言葉にも勝る。


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