馬になる ――編集ダイアリー2020年5月27日


 「道草を食う」という言葉が好きだ。

 道草というのは読んで字のごとく、道端の草を食うことで無駄な時間を費やすことなのだろう。
 と思って調べてみたら、やっぱり馬が道端の草を食べてばかりで目的の場所にたどり着くのに無駄に時間がかかることから転じて生まれた言葉らしい。

 でも、これって馬主の目的達成に時間がかかることが無駄だと言っているだけで、当の馬たちにとってはなんとも意味ある時間ではないか。

 道草を食うとは、周りの意に沿うことのない、自分だけの贅沢な時間の使い方なのだと思うとあらためてうれしい気持ちになる。

 さて、ちょうどそれに近いようなことがわたしの中でも起きている。
 コロナウイルスがわたしの考えを変えたのだ。

 これまで、売上のため、ひいては生活のためにやり続けてきた仕事。働くとはこういうことだとずっと思ってきた。
 自らの理想のためには、犠牲にしなければいけないことがあるとずっと思っていた。

 でも、そういうことに意味を見出せなくなってしまったのだ。
 やる気をなくしたのではない。やるべきことは別にあることに気づいたのだ。

 それはなんだろう……。
 わたしの望みは馬主になることではなく、馬になることだったのだ。
 一見矛盾を感じるかもしれないが、商売とはある意味主従関係で、買ってくれる人の意に沿うのは絶対的なことなのだ。
 大企業でも、わたしのような風が吹けば飛ぶよな弱小零細出版社も同じである。

 が、そこに間違いがあったのだ。
 馬が道草を食っても、馬主はどうすることもできない。
 怒り狂い、馬を痛い目に合わせたところで事態は好転するどころか、むしろよくない方向に行くにちがいない。

 そして馬がいなければ、彼らの目的はなにも進捗しないという厳然とした事実が突きつけられるだけなのである。

 馬主は苦笑し、諦めて馬に付き合うしかないのだ。

 わたしはそんな立場で商売をしようとしていたんだ……と、ついさっき、この文章を書きながら驚きを持って気づいてしまったのだ。

 わたしは馬のように、高い能力は持ち合わせないし、馬主を喜ばせることもできない。
 それでも、のんびり草を食む馬鹿……いや馬はお嫌いですか? と問いてみたい。

 嗚呼、わたしは馬になりたい。

 

 


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