編集者の本分をわきまえる ――編集ダイアリー2020年5月31日


 かすかな雨音を聞きながら、今日も無事に日記を書いている。
 毎日、書くことの意味を考えない日はないのだが(特に書いている最中)、ずっと心のどこかに後ろめたさを持っている。
 わたしが書くということ自体についてだ。

 わたしの本づくりの先生は、以前の勤務していた出版社の最長老である村山惇さんだった。
 もともとその出版社は村山さんが40年ほど前に設立したものである。高齢を機に会社の権利を譲渡し、顧問のような形でずっと本づくりをサポートしていたのだった。
 わたしが初めて出版社という場所に自分の居場所が出来たものの、何をするべきか迷い右往左往する姿を見て、
「急がず焦らず、ゆっくり取り組めばいい」
といつもアドバイスしてくれたのだった。

 その村山さんが常々言っていたのが、
「編集者は表に出るな」
という言葉だった。
 黒子として裏方に徹するのが編集者の正しい姿――と、ことあるごとに聞かされたものだ。

 生涯で600冊近くの本を編集したものだけが語りうる、重みのある言葉だった。
 著者があとがきに書く謝辞さえ嫌がるような人だから、3年ほど前にわたしが自らが取材、執筆、編集した「人生を道草」を発売し、献本した途端に連絡をよこして、
「どうゆうつもりであんな本を作ったんだ」とわたしに食ってかかってきた。
「そんなもの今すぐやめろ」
 それが村山さんの結論だった。

 作ったものを否定されるほど悲しいことはない。でも、それ以上にわたしの心を大きく揺らしたのは、時代が変わり、誰でも気軽に発信できるようになった今、そんなにこだわる必要があるのかということだった。
 わたしは村山さんの指摘を前時代的なもののようにとらえた――それからずっと自分の中にわだかまりが残っていたのだった。

 去年の終わりごろだったろうか、村山さんから突然電話が来た。
 身の回りを整理していて、蔵書のうち大切にしてきた本をまとめてわたしに送ってもいいかという内容だった。
 これまで携わってきた「学校教育」にまつわる資料の数々だった。
「どれかひとつでも気になるテーマがあれば引き継いでほしい」
 電話の声から、そんな思いが伝わってきた。

 やりとりするうち、年齢の話になった。
「お前、いくつになった」
「もう来年で五十ですよ」
 82歳になったばかりの村山さんがこともなげに言った。
「それなら、1年に1冊本を出すとして、80歳までに少なくとも30冊は本を作れるな」
 わたしは思わず笑ってのけぞりそうになった。電話の向こうで村山さんも笑っていた。

 でも、もしそれを実現するとしたら、わたしは編集者として裏方になる必要があるのだ、やっぱり。
 村山さんがあのときわたしに食ってかかったのは、国民総発信時代などとは関係なくて、わたしの仕事との向き合い方を問うていたのだ。

 自分の思いだけを残すのには限界がある。しょせんは覚悟を持たない人間が紡ぐ言葉。
 世の中の様々な出来事と直接向き合う人を見つけ出し、記録に残す手助けをするのがお前の仕事ではないのか?

 だからいま、「人生と道草」の発行は止まっている。本来の仕事ができるようになったら、あらためてもういちど問い直してみるつもりだ。

 「Tabistory」でこんなことを書いても、わたしが文章を書き続けることの免罪符にはならないかもしれないが、この程度の文章なら大目に見てもらえるだろう、きっと。

 

 


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