雨の日は ――編集ダイアリー2020年6月19日


 傘立てを買った。

 雨の日の今日、届いた箱を開けた。
 メッシュの傘立ては思ったよりも小ぶりだが、事務所のドアの脇にうまく馴染んでくれた。
 これからきっと長いことたくさんの人の傘を受け止めてくれることだろう。
 自分の濡れた傘を立てかける。
 雨で沈んだ心がすっと明るくなった。

 今日は気分が乗らない。そんな時、空を見上げて合点が行く。
 そうか。雨の日は、どうしても気持ちがふさぎこみがちになる。
 天気に気持ちを左右される自分の心の弱さを思い知るのだが、仕方がない。

 ふと、雨の日が楽しかった子どもの頃を思い出した。
 小学校4年生の頃だったろうか。雨の日の午後、学校から戻り、祖母といっしょにTVで「非情のライセンス」という刑事ドラマを観ていると、急に、雨で沈んだ街の雰囲気が恋しくなったのだった。

 いてもたってもいられず、ドラマを観終わると家を飛び出した。
 行く場所はもう決まっていた。代官山から渋谷まで、東横線の高架下を一人で歩いてみようと思ったのだった。
 もしかしたらドラマのシーンにそれらしき光景が出てきたのかもしれない。子ども心に刑事ドラマの情感あるイメージが高架下と雨をつないだのかもしれない。

 車窓から見たことがなかった初めての景色。なんだかモノクロの世界だった。
 線路の下のコンクリート色の殺風景な風景。シャッターが並び人通りは少なかった。
 ときどき通過する電車を見上げると、蛍光灯に照らし出された車内にたくさんの人の気配を感じて心強くなった。

 しとしとと雨が降る中をひとり歩く。やがて渋谷のカラフルな街の雑踏の中に自分もその一部となって飲み込まれていく感覚がとても心地よかった。
 そして最後は、わが家――無条件に包み込んでくれる心安らぐ場所――に再び戻る幸せをかみしめて終わるのである。

 日々の憂鬱や不安も、家族といっしょにいることで全て忘れることができた子どもの頃。
 そんな世界からときどき飛び出しながらふたたび戻ることで自分の幸せをかみしめていたのかもしれない。

 いまわたしが頼りにする場所は、50年生きてきた自らの煩悩で昔ほどそんなふうには思えないけれど、それでも雨の日はいつもの椅子に腰かけ、ときどき内側から雨の世界を眺めていると、少しだけ同じような気持ちになる。

 

 


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