昨日、先日久しぶりにお会いしたK氏のお母様の四十九日法要に参加させていただいた。
山手駅から長い階段を上り、狭い路地を進んだ先にKさんのお母様が暮らした家はあった。Kさんのご自宅と同じように心地よい風が家の中を吹き抜けていった。
法要を無事終えて、喪主のKさんとお経をあげてくださったM老師、参列者の皆さんとの話に耳を傾けひと時を過ごした。
この数か月間のコロナウイルスとの向き合い方を一人ずつ聞きながら、当たり前だけれども、皆それぞれに悩み、乗り越えるためにさまざまに思い悩んでいたこと――それを直接相手の顔を間近で見ながら聞くことができてとてもよかった。
考えてみると、大勢の人の中で話を聞き、語るということがすっかりなくなっていた。
たぶんその場にいた全員がそうだったのだろう。ようやく自分の不安な思いを人前で伝えることができることに喜びと安どを感じているのが伝わってきたのだった。
もちろん、わたしもそうだったと思う。
でも、わたしの中には、こんなときでもどういう訳か「なんとかなるだろう」という思いが常にどこかにある。
これだけ世界を不安に陥れている状況下であってもそうなのだ。
「生きるとは何か」を真摯に考える人たちの中に、ほんとうに真剣に向き合えていない自分がいる思いがして、わたしだけが浮いているような悲しい思いがするのだった。
「なんとかなるというのは、お前自身の問題を先延ばししているだけなんだよ」
Kさんから帰り際にもらった言葉をずっとかみしめている。