難関であり続ける楽しみ ――編集ダイアリー2020年6月22日


 昨日は朝からバス教習と夜間の乗務が続き、一日中、バスドライバー感覚で過ごしていた。
 教習は、路線用のバスよりも背が高くて全長が長い観光バスを使い、教習所のコースを借り切って走るのだ。
 クランク、S字、縦列駐車、車庫入れ方向転換に加え、スラロームに狭隘路、たこつぼ内での方向転換など、普通に公道を走るのとはまったく異なる緻密さが求められ、経験者でもなかなか手ごわい。

 冷房の効いた運転席で大量の汗をかきながらハンドルを握る。
 走行を終え、ほっとしたのもつかの間、教官からの鋭い指摘に心がなえてしまう。
 こんなことを繰り返して思うのは、本づくりとバスの運転はやっぱり似ているなあということである。
 
 皆さんは似ても似つかない仕事だと思われるだろう、きっと。
 でも、わたしはバスの仕事を始めて、最初からぶれずに感じていることである。

 本づくりもバスの運転も、それに携わる当事者のこだわりがあって、仕事の完成度を高めている。
 けれども、それは自分が考えている以上に受け手にはあまり気づかれることはない。彼らにとっては「あたりまえ」のことだと思っているのだ。
 こともなげにやっていることが、実は多大な努力と苦労の賜物だとしても。
 バスの運転も本づくりも――あたりまえのことを徹底的に磨く――そういう仕事なのだ。

 本づくりは企画が大事であることは言うまでもない。
 でも、著者が優れていても、企画がどんなによくても、出来上がった本のページを開いたとき、統一感がなくて、間違いだらけで、しっくりこなければ、それは作り手としての力が不足している。
 本を読んだときに、作者が織りなす物語の邪魔をしない、その物語を正しく伝えるよう整えるのが編集者の仕事なのだと思う。

 バスも同じだ。
 乗客を目的地へ輸送する。でも、運転にムラがあったり、不安や危険を感じさせるような運転では職務を果たしたとは言えない。
 上手と思ってもらおうというのではない。ただただ安心して乗ってもらっていればいい。それこそ、座ったまま目が覚めたら無事に目的地に着いていた――そんな運転が理想だ。

 いずれも裏方的な地味な仕事である。
 そして本来の目的のために、内なる技を自ら磨き続ける、そしてそれは何にも代えがたい喜びを秘めているという意味で、わたしはどちらも同じように思うのだ。

 こんなことを書くと、ただ自己満足に溺れる人間のように思われるかもしれない。
 しかし、その裏方ぶりがさらに満足のいくものならば、もっと目立ちたいなあと思う時ももちろんあるのだ!

 まあ、欲求がすぐに満たされるほどそんな簡単に完成しうる仕事ではないのだけれど。
 どちらも難関だ。それが楽しい。

 

 


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