コロナ後はあるのか? ――編集ダイアリー2020年7月18日


 最近、気になるニュースを読んだ。
 日本は他国と比べても新型コロナウイルスの感染者数が圧倒的に少なく、また抗体検査をしてもその数が極端に少ないのは、自然免疫で治癒してしまっているからではないか――という説が出始めたことだ。

 免疫には自然免疫と獲得免疫があるそうだ。自然免疫とは読んで字のごとく、生まれつき備わっている自己の病原体に対する攻撃力のことらしい。
 獲得免疫とは、新たな未知の病原菌を取り込み克服することで体に新たな抗体が生成され、それが免疫力を持つことで同じ病原菌を攻撃できるようになるというふうに二つに言葉が使い分けられているらしい。

 先ほどの話がほんとうだとすると、日本では抗体ができる前に自然免疫で治っている可能性がある。
 実はすでの多くの人が新型コロナウイルスに感染していたのかもしれない。
 陽性反応が出て、持病のため症状が悪化し、命を落とす人がいる一方で、ちょっと風邪気味だった(そもそも無症状の人もいる)……というのも、実はコロナだった可能性は否定できないのである。

 だとすると、世界中の科学者がいま、血眼になって開発を急いでいるワクチンも、もしかすると現代においてさえ「風邪」に対する特効薬が見つからないのと同じように、何年待っても生まれない可能性だってあるわけなのだ。
 要するに、自己の「自然治癒力」に頼るしか方法がないということである。
 そう考えると、コロナウイルスの抗体は長く持続しないのではないかという、すでに言われている説もなんとなく合点がいく。

 もちろん、今の時点でこういう話を鵜呑みにすることはできない。しかし、頭の中にとどめておくことは必要だと思う。
 希望の持てる材料を待っている間、わたしたちは辛抱ができる。でも、それがかなわなかったときに、今の世の中のありようのままではわたしたちは生きる覚悟を持てるのだろうか。
 もし、悲観的な状況が見えてきたとき、今のままの自粛的な意識や行動のままでは、わたしたちは二度ともとの生活ができなくなり、抑圧された一生を送らなければならない可能性だってあるのだ。

 わたしがなぜこんなことを書いているのかというと、わたしたちは心の中のどこかで、
「今の技術ならワクチンなんていずれできるだろう。だから今はガマンしかない」
という風潮がまん延していると感じているからである。

 「3密を避ける」「新しい生活様式の実践」など、感染をしない、広めないための最低限の配慮はもちろん必要だと思う。
 でも、今からでもわたしたちはできる範囲で、コロナウイルス前の世界と同じような暮らしと心を保つための伸びしろを維持し、育んでおく必要があるのではないだろうか。

 最近の物事のとらえ方は、命に係わるからこそ極端になりがちだ。
 でも、なんでも極論でいい悪いと決めつけてはいけない。その中間をうまく切り抜け生きていく考えだってある。それは決して「ずるい」ことではないとわたしは思うのだけれど、皆さんはどう思われるだろうか。

 

 


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