昨日は祖母の祥月命日だった。
スマホのスケジュールに現れた繰り返しの予定を見て気づいた。
22年の月日は、悲しく心に刻んだ出来事も、角のある石が時を経て少しずつ滑らかに馴染んでいくように、わたしの思い出の中でも徐々に丸く小さくなっていく。
明治44年生まれの祖母は、仙台から京城(今のソウル)に渡って終戦を迎え、福井、岐阜を経て東京に出て来た。
私の祖父となる結婚相手は建築技師で、若くして今はなき朝鮮総督府の建設などに携わっていた。たくさんの職人が出入りし、同じ釜の飯を食べるようなにぎやかな暮らしをしていたそうだ。
そして迎えた敗戦。貴重品は全て取り上げられてしまい、着の身着のままでたどり着いたのが福井だったらしい。そこで帰国後の基盤を築いたあと岐阜に移り、わたしの母が生まれて3年後、夫と死別。
戦後の混乱期に主人を失い、自らも働くために兄たちと共に世田谷の三宿という場所に腰を落ち着けたのはずいぶん時間が経ってからだったそうだ。
女手一つで働きながら娘を育て、その娘が成人し、結婚して生まれたのがわたしというわけだ。
だから祖母にとっては孫の誕生は待ちに待った出来事だったのだろう。
わたしはすっかり甘やかされ、そのまま大人になり、なにも恩を返せないまま祖母は逝ってしまった。
最後は認知症を患い、普通の暮らしをすることさえおぼつかなかった。
階段でけがをして寝たきりになってから急速に身体が弱まり、食も細くなった。
手をこまねいて何もしてあげられないうちに祖母の様子の異変に気づいて救急車を呼んだときは、すでに危険な状態だった。それからひと月近く祖母は意識がなかった。
蒸し暑い夜に、わたしはひとりICUを訪れた。
機器の音だけが聞こえる薄暗くて静かなベッドの傍らで、わたしが祖母の手を握るとふいにその骨ばった手に力が入った。そしてかすかに声を発した。
「もういいよ」そう言った。確かにそう言った。祖母は正気に戻ってわたしにきっと伝えたかったのだと思った。
わたしは泣きながら家まで歩いて帰った。
翌日、仕事が終わり皆が帰ったあとの事務所で携帯電話が鳴り、今さっき、母が祖母の死を看取ったと聞いた。
あの日、祖母は最後の力を振り絞ったんだなと思うと、今でも胸が締め付けられる。
そういえば、あの日の空模様はどんなだっただろうか。