ペンギンの食べる魚


 下田海中水族館は、今年で開館55周年のとても古い水族館だ。
 地図を見ると、静岡県・下田半島の一番下の右の方にある、くるりと小さな湾をそのまま利用して作った水族館であることがわかる。
年末、ユークと私は必ずここへ来る。動物園もバナナワニ園もまぼろし博覧会にも行きたいけれど、でもどうしてもここだ。

 入口のドアを抜けて入館料を払うと、すぐ隣ににこにこと笑顔のスタッフが立っていて、館内へと急ぎたい私たちの写真を「さあさあ」と一枚撮る。
 昔は撮影用にイルカやなにかの生き物のぬいぐるみを持たされたりしたけれどコロナ禍以降そういうシステムはなくなり、けれど入館前に一枚写真を撮るという決まりだけは残った。
 ユークと二人揃って写真を撮るということがめっきり減ったので、こうして並んで誰かの持つカメラに向かって笑顔を作るというのはいつの間にか結構緊張することになった。
「では、出来上がった写真はお帰りの際に、出口でご用意しておきますので、ぜひご覧くださいね」
と言って女性カメラマンはにっこり笑い、私たちは解放される。

 朝、車で横浜から出発して、途中の好きな浜を見たりお昼ご飯を食べて地元のスーパーで買い物をしたりしていると下田まで到着できるのはどうしても午後を軽く過ぎてしまう。
 その日、まだ見ることのできるショーを急いでタイムテーブルで確認しながら、一番近い大きな水槽「アクアドームペリー号」へと私たちは向かった。
 海に渡した細い橋は頑丈だけれど、複数の人が渡る(おまけに子どもたちというのは大抵走る)と揺れるし、ところどころ錆のようなものも目立つ。それでもきちんとあちこち修理され、手入れされ、園内にはごみひとつ落ちていないことにいつもとても感心する。

 大水槽のアクアドームペリー号の中では、もうすぐ「ディスカバリーオーシャン」というダイバーによる魚たちへ餌やりショーが迫っていた。
 私はこれを見るのが大好きで、ゆっくりとプールの底へ沈んできたダイバーが分厚いガラスの向こうから観客席の方へ手を振ってくれるとなんだかものすごく嬉しくてつい手を振り返してしまう。
 向こうからはどれくらい見えているのかな。どんな風に見えているんだろう。同じ水の中にいる日々慣れた魚たちよりもガラスの向こうの私たちの方がよっぽど奇妙な生きものに見えているかもしれない。

 アナウンスが入り、今日登場する魚たちの種類が読み上げられる。写真撮影にものすごく向いているのは、エイだ。
 大きいものは大人が両手をぐっと広げても届かないくらいの幅があり、それがぺたりとガラスにくっつくとお腹の側の鼻孔と口がまるで笑顔のように見えてなんとも可愛い。
 ダイバーの投げる餌をお腹をガラスに押し当てるようにして少しずつ隙間を作りながらずらして口の中に落とし込むところは何度見ても素晴らしい。
 ダイバーは毎日手から直接食べ物を与えているため、水槽の生きものたちはみんなとても懐いているのだという。ウツボでさえ、その尖った歯をアピールしつつ恐ろしい目付きのまま、しかしごろんとダイバーに抱っこされていた。

 私が一番好きなのはネコザメで、鮫という名がついていることが嘘のようにもったりと丸くおとなしく人を襲うことのない生きものだそうだ。
 昼間は寝ていることが多いそうで、今日もダイバーによって水槽の端の洞窟で寝ていたところを起こされ抱きあげられてガラスのところまで運ばれてきた。
 ドリルのような形をした卵は、産みたてはまだ柔らかく、ネコザメの母親は、卵を産むとすぐにその卵を岩の間に押し込む。そのまま卵が硬くなり、岩から抜けにくくすることで流されてしまう心配がなくなり、そのくるくるとした卵の中でネコザメの赤ちゃんは、なんと一年をかけて育つのだそうだ。
 この説明だって毎年必ず聞いているはずなのに、いつだってまるで初めて聞いたかのように感動しきって拍手する。私は、賞賛の拍手を送るのが趣味なのかもしれない。

 今年は、初めてタイミングがあい、ついに園内のコツメカワウソにおやつをあげることができた。
 ガラス張りの飼育場にカワウソの腕がやっと通るくらいの細いトンネルが一本あり、コツメカワウソはそこからこちら側ににゅっと手をのばしてくる。
 彼らの肉球はひんやりしていてせっかちな様子でぴたぴたと私の手のひらをたたき、そこに置いた一粒のおやつをつかむとさっとまたガラスの向こうに戻っていく。
 あまりに可愛いので飼育員さんにいろいろ質問したくて、でも焦ってしまって「爪は一体どうなっているのですか」としか聞けなかった。
 爪はとても小さい(その名の通り)ので、猫のように引っ掻いたりする仕組みにはなっていないらしい。
「エンちゃんにそっくりだね」
とユークが言う。
 あの細くてすべすべした体と敏捷な動き。くるりとまるい真っ黒な目。コツメカワウソは我が家の黒猫エンゾによく似ている。感動のあまり呆然としながら、すぐそばのペンギンの水槽に近寄って行った。

 ここではペタペタマーチというショーがあり、ペンギンたちの習性や暮らし方などを教えてくれて、ちょっとした芸も見せてもらえるとても楽しいもので、私はこれも必ず見ることにしている。去年のショーの時に、
「ペンギンたちの食べているこの魚はなんでしょう」
 とバケツから魚を取りだして見せてくれるクイズがあり、私は、
「イカナゴ、イカナゴ」
 と思いつつ手を上げられずに残念な思いをしたので、今年こそは絶対に答えようと思っていた。
 そして待ちに待ったその質問に、私はちらっと周りを見て誰か子どもが答えようとしていないことを確認して(子どもが答えたいのならば仕方ないけれど譲る)からさっと手を上げ、意気揚々と
「イカナゴです!」
と答えた。
 飼育員さんが一瞬息を飲んだように見えた。今日、ペンギンたちが食べていたのはイカナゴではなくタカベだったのである。私の答えは不正解だった。
「でもっ、ここにイカナゴもあります! そして鯖も」
 と、元気に付け加えてもらえたので良かった。

 この日、私たちはアザラシショーとイルカショー、アシカショーにカマイルカショーも観た。
 ユークのお気に入りはアシカの「カイ」くんだ。
 若くて元気が良くて楽しそうにつるつるとトレーナーからの合図を待っている。風が冷たくてマスクの中でちょっと鼻水が出そうになりながらたっぷり拍手して、下田海中水族館を後にする。
 出口にプールがあり、そこには大きな亀が泳いでいる。この亀にそっと手を振ると、時々本当に時々、ひれを振り返してくれる亀がいて、そんな時、私は子どもの頃に大好きだった映画の「フリーウィリー」を思い出して胸が熱くなる。

  この前、知り合いの高校生が、
「お金も知識も環境もみんな揃っているとしたら麻衣子は何の仕事をしたい?」
と一緒に歩いているときに突然言った。私は、
「なんだろう。恐竜の化石の発掘かなぁ」
と言いながら本当はあの下田の町はずれの水族館のことを考えていた。

 夏はものすごく暑いだろうし冬はとても寒い。でも信じられないくらい美しい生きものたちがたくさんそこには暮らしていて、夕焼けの光がいっぱいに差し込む湾の中で時々イルカがたまらなく楽しそうに跳ね上がる。
 あそこで働いてみたい。


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