キュキュロンの猫


「今日は100番のバスでペルテュイまで行くよ」
と、ユークが言った。

 広場の近くのル・パン・コテュディヤンというパン屋で、ユークはハムとチーズのサンドイッチとクロワッサンを、私はグラノーラを食べながら大きなカップのカフェオレを飲んでいた。
 早朝だというのに、店内は人が多かった。店員はひっきりなしにやって来る客たちと挨拶をくり返し、私にはとても聞き取ることのできない速さのフランス語で世間話をしながら大きなカップにコーヒーを注ぎ、笑いながらクロワッサンやバゲットを紙にくるんで次々と彼らに渡した。その様子から目を離さないまま、
「ペルテュイ?」
と聞き返す。聞いたことのない街の名前だった。

「そう。今日はそこでバスを乗り換えてキュキュロンに行ってみようと思って」
 と地図を見ながらユークが頷いた。
 キュキュロンというのがどんなところか知らないけれど、多分教会とカフェと、老人たちがペタンクをするための広場があるところだろうと思った。この辺りの村は大体みんなそうだ。歩き疲れて一休みしたい時にカフェでとりあえずワインを一杯飲むことさえできれば私は良いし、この辺りの村のカフェには必ずおいしいワインがあるということを知っていたので、私は頷いて、
「いいね」
と答えた。

 ペルテュイの街で乗り換えたバスは、とても小さなマイクロバスだった。運転手はサングラスをかけた女性で、タトゥーが入って良く日焼けした腕がすらりと長く格好良い。
「キュキュロンへ行きますか」
と聞くと、Oui と頷いたので、
「デュ ペルソンヌ シルブプレ」
と言って二名分のチケットを買う。
 せっかくフランス語を習っているのだからどんどん使ってみようと思い、旅先では意識してフランス語を使うようにしているのでバスのチケットを買うという簡単なことがフランス語を使ってできたというだけでものすごい満足感がある。
 ところで私は「ステッカー」というフランス語の発音が壊滅的に下手なので、土産物屋でステッカーを買おうとする度に困ったことになるのだけれど、どうしてもステッカーが欲しいので何度も何度もチャレンジしている。難しい。

 さて、無事にチケットを買って乗り込んだキュキュロン行きのマイクロバスには、私とユークしかおらず、ご機嫌な音楽ががんがん大音量で流れる中、私たちはひたすら続く田舎道を運ばれて行った。
 キュキュロン村の少し手前に小さなバス停があり、私たちを降ろしてマイクロバスはぶーんと去って行った。
 バス停の近くにはワイン屋があり、ユークはそこでロゼワインを一本買った。そのまま隣のインフォメーションに寄り、村の地図を一枚もらって開いてみるとキュキュロンの村は城壁にぐるりと囲まれた小さな一つの山になっているようだった。

「歩いてみよう」
とユークが言い、細い道を入った。
 緩やかな坂道の両側に可愛らしいカラフルな鎧戸がついた家々が並んでいる。木曜日の午前中、通りを歩く人はほとんどおらず、その不思議な静けさは、突然映画のセットか何かの中に紛れ込んでしまったようだった。各家の窓には柔らかそうなレースのカーテンがかかっていて、飾られた鉢植えからは色とりどりの花がこぼれんばかりに咲いていた。
 時折、風が吹くと、住人が見ているらしいテレビの音や台所で水を使う音、食器の音と一緒に家の匂いが流れ出てきた。
 石鹸や料理や古い家具や煙草や香水なんかがみんな混ざった匂い。知るはずのない懐かしさにめまいを起こしそうになりながら私たちは歩いた。

 丘の上の今は廃墟となっているサン・ミシェル城塔は、鳥と虫の声だけが聞こえるとても静かな場所だった。
 私たちは、もしかするといつの間にかどこか昔の時代に来てしまったんじゃないかというようなその場所にしばらく立っていた。じっとしていると、目には見えないたくさんの何かが私たちの周りをするすると通り過ぎていくようだった。

 どちらからともなく歩き出し、営業していないパン屋と肉屋の前を通り過ぎ、ぐるりと坂を下っていくとちょうど村に数軒しかないレストランがオープンする時間だった。
 一体どこにこんなにいたのだろうと不思議になるくらいたくさんの人たちがわらわらとレストランにやって来てあっという間に店内は満席になった。喉が渇いていたので、ワインとキュキュロンサラダ、ビーフカルパッチョを注文する。程なく、
「ボワラ」
 と運ばれてきたサラダには、チーズ、きゅうり、トマトやビーツにキッシュとメロンがどっかりと盛られ、メロンには豪快にスプーンが刺さっていた。
 カルパッチョには大量のポテト。どちらも美味しく、ものすごい量だったのにぺろりと食べきった。フランスにいるととにかくお腹がすいて仕方ない。

 帰りのバスを待つ間、広場の真ん中にある池の縁に座ってしばらくの間、ユークは新聞を、私は平松洋子「そばですよ」を読んでいた。
 濃いつゆの色、たっぷりの葱、年季の入った七味唐辛子の缶、大好きなちくわ天。全部が懐かしく口の中に味までじわじわ湧いてくるような気がするのに全部とても遠い。

 みゃ、と声がして振り返ると、もったりと大きな茶色い猫がすぐ近くまで来ていた。
「おや、可愛いね」
 と抱き上げてもちっとも怖がらずに、きょとんとしている。
「山椒みたい」
と私たちは言い、それから少し寂しくなった。
 旅先では家に残してきた猫たちのことばかり考える。エンゾと山椒も一緒に来ることができたらいいのに。そうしたら二人と二匹でずっと旅ができる。でも、猫たちは旅など全くしたくなくて大好きな家のそれぞれのお気に入りの場所でごろごろしていたいに決まっているので、どうしたって私たちが帰るしかないのだ。
「キュキュロンのさんちゃん」
と呼ぶと、茶色い猫はころりと転がって柔らかなお腹を見せてくれた。
 また来るね、と撫でる。池の周りには背の高いプラタナスがぐるりと植えられ、木漏れ日 がさらさらと猫の柔らかな背中に降り注いでいた。

 帰りのバスは、髪の毛をドレッドに編み、これまたタトゥーが手の甲までびっしりと入った恰幅のよいおじいさんが運転していた。ラジオの心地よい音に眠気を誘われてうとうとしている内にいつの間にかバスはエクスアンプロヴァンスに戻り、街には霧雨が降り始めていた。
 バスを降りた私たちはとりあえず街角のパブでビールを一杯飲むことにした。


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