大陸の端――まで、はるばるやって来たような気持ちになる。冬の週末の昼下がり。岬の高台の先には青々とした海がうねり、広い空からは陽ざしが降りそそぐ。
でも、ここは東京から電車に揺られて2時間ちょっとで辿りつく、千葉県銚子市にある犬吠埼。銚子電鉄の犬吠駅を降りて、5分も歩けば犬吠埼の灯台が見えてくる。犬吠埼は、関東平野の最東端に位置していて、太平洋に突き出るような形をしている。
澄みきった青い空に、くっきり映える真っ白な灯台。眼下の岩礁からは波の音が響き、ちょっと冷たい海風がびゅうびゅうと吹きつける。気持ちがいい。日ごろ溜まった「重さ」のようなものが、洗われていくような気持ちになる。
目の前に広がる海や岩場に打ち寄せる波を眺めていると、なんだか昔から何も変わらない景色を眺めているように思える。何も変わらない自然の景色を眺めているから、心が洗われる、と。でも、こんな美しい犬吠埼の海の景色も、本当は変わらない景色なのではなく、大きく変わった景色をいま眺めている――。
昔と比べて大きく変わった景色とは、いったい何が……?
それは、いまや犬吠埼にはニホンアシカが存在しない、ということ。昔はこの辺りの海にたくさん群れていたはずなのに、ニホンアシカは姿を消してしまった。そもそも、犬吠埼の「犬」とは、ニホンアシカのことを指すという。ニホンアシカの繁殖地であって、群れて鳴き声が周囲に充満していたから、犬吠埼と名づけられたようだ。
かつてニホンアシカが群れて鳴いていたころの海辺の景色は、いったいどんなものだったのか? 犬のような「きゃんきゃん」といった鳴き声が、波の音に交じって響いていたのだろうか。犬吠埼は、週末になると多くの観光客もやってくる。もしも、いまもこの海にニホンアシカがいたのなら、どれほど多くの人の目を愉しませたことだろう……。
かつてニホンアシカは、日本中の海に生息していた。北は北海道から、南は九州沿岸まで。日本海側にも太平洋側にもいた。なんと、東京湾にも生息していたという。でも、明治に入ると、近代産業や漁業の発展とあいまって、ニホンアシカは次々と姿を消していく。19世紀末から20世紀初頭にかけて、皮と脂のためにニホンアシカは各地で乱獲された。東京湾、伊豆半島、瀬戸内海……と、次々にその姿が消えていった。また、漁業技術の発達とともに、アシカが網を破るといった被害が出はじめたために、ニホンアシカの駆除も行われた。
ここ、犬吠埼のニホンアシカも明治末期(1910年前後)ころには、もう姿を消していたようだ。そして、今日では、ニホンアシカはもう絶滅してしまったといわれている。最後に発見されたのは、韓国との領土問題に揺れる竹島。それも1975年の発見報告というから、もう40年も経っている。人の手が及びにくかった絶海の竹島は、ニホンアシカの最後のサンクチュアリだったが、そこでもアシカ漁などによって個体数が激減し、保護政策も行われなかった。1960年代に入ると、ニホンアシカは竹島からも、ほぼ姿を消してしまった(天王寺動物園の展示によると「1950年代に竹島で約100頭の生存が確認されたのが最後」とする見方もある)。
およそ100年前の海。日本中に、あたり前にいた、ニホンアシカ――。
いま、目の前で眺めている犬吠埼の海は、何も変わらない海ではなくて、「あるもの」が失われてしまった海を眺めている、ということに気づかされる。
灯台の高台をくだって、犬吠埼の北側に広がる君ヶ浜を歩いてみる。冷たい風が吹きつけるなか、サーファーは沖で波を待っている。さらに北に向けて歩くと、岩礁が海にぽこぽこと浮かんでいる海岸に出る。ここは、海鹿島(あしかじま)海岸と呼ばれている。おそらく、点在する岩場にニホンアシカが群れで寝そべっていたのだろう。それらの岩場が、まるで「海鹿(あしか)の島」のように映ったのだろう。
もちろん、いまは岩場には何も、いない。
海馬島海岸には大量の消波ブロックも投入されていて、ニホンアシカの姿が消えてしまっただけではなく、渚の風景もずいぶん変わってしまったのだろう。
と……、ついつい、いけない。
なんだか哀しみに充ちた海岸散歩のようになってしまった。
でも、思う。
哀しいけれど哀しみすぎてはいけない、と。
哀しい歴史に向き合いつつも、やっぱり、「いまここにある海」をいとおしく思いたい。
いや、哀しい歴史に向き合うからこそ、いまここにあるものの尊さがわかる。遺されているものの尊さがわかる。
海鹿島海岸を背にして、15分ほど歩くと、銚子電鉄の海鹿島駅に着く。ニホンアシカを想起させる駅から、銚子行きの2両編成の電車に乗り込む。
これから、「失われた海」をさがして、もっと旅に出よう。
「見える海」を眺めて、「見えない海」にも想いをめぐらそう。
と、気負ってはみたものの、週末の車内は、まどろみを誘う。
陽だまりのなか、電車は走る。
ゆっくり、ゆっくり。