ぎゅうぎゅうと多くの釣り人を乗せて、漁船は港をはなれた。
東京都・八丈島の八重根港を出て、目指すは無人島の八丈小島。
30分ほど船に揺られると、八丈小島に着く。漁船は釣り人が目指すポイントに、船首を近づける。大きなクーラーボックスを抱えた釣り人が、磯に飛び移る。船はまるで「各駅停車」のように、ちょっとポイントを移動しては、釣り人を少しずつ八丈小島に降ろしていく。
それにしても、どこのポイントも険しい磯だ。
八丈小島の南岸(横瀬根の近く)の岩場に、3名の釣り人と降り立った。
釣り人は、そこのポイントで早々に竿の準備をはじめる。
目の前の急な岩場を這いあがる。ここからは、自分ひとり――。
かつての宇津木村に通じる坂道がうねうねと延びている。
15分ほど上っていくと、宇津木小中学校跡地に行きつく。もう校舎跡はなく、芝生の更地がぽっかりと広がっている。校門跡(二本の門柱)だけは、今もしっかりと残っている。ここからは、対岸の八丈島がよく見渡せる。円錐型をした八丈富士(標高854メートル)が美しい。
草をかき分けてさらに坂道を上ると、為朝神社跡に出る。源為朝は、ここ八丈小島で自害したという伝説が残っている。鬱蒼とした藪の中には、崩れた燈籠(とうろう)も見える。もうここから先は、深い藪になっていて、これ以上先へは進めそうもない。
八丈小島が無人となったのは、1969年。
全島民が集団で移住し、無人化した全国初のケースとして知られている。
なぜ人の住む島が無人島になるのか。しかも、なぜ全島民が揃って島を離れるのか。
その背景は、今日の限界集落と同じく、若い世代が村を離れ、急激な過疎化が進んだせいだ。
都会の「稼げる仕事」に、島の若者が吸い寄せられていく。
若い世代をはじめ、人が減っていけば、生活への不安は大きくなる。船着場での荷の積み下ろし作業など、生活のインフラは島民みんなで支えていたためだ。厳しい自然環境だからこそ、お互いの生活を助け合う。そんな共同体的な暮らしが、過疎化によって徐々に崩れていく不安――。
無人化した1969年といえば、当時は高度成長期。
都会と地方の「格差」はどんどん開いていった。自分たちだけが医者もいない島に取り残されていくという焦燥感。カネが何よりモノをいう時代になって、現金収入に対する不安も膨らんでいく。無人島になる前の人口は91人(鳥打村、宇津木村の合計)。江戸時代には人口が513人に達した記録があった島だけに、全島民離島というのは島の歴史の大きな決断だった。
八丈小島が無人化して、もう45年以上が経った。
八丈小島のいにしえの暮らしとは、どのようなものだったのだろう。
『黒潮の瞳とともに――八丈小島は生きていた』(漆原智良、たま出版)を読むと、無人化になる前の島の暮らしや独自の文化がよく分かる。漆原氏が当時赴任した八丈小島の小中学校の話を中心に、誰もが顔見知りで、互いの不便な生活を助け合う「豊かな」日々が描かれている。
「むかしはのう、この島には他火(たび)小屋という小屋がありましたじゃ。女衆が、出産時や月経時になりますと、この小屋へはいっていたものですじゃ」
といったように、八丈小島の老人から伝え聞いた、小島の伝統文化も記されている。文化人類学でいうところの「月経小屋」「忌避」といった古来の文化も、この島には長らく受け継がれていたのだろう。
また、八丈小島には戦後、日本唯一の直接民主政治が行われていたという、珍しい歴史もあった。地方自治法は1947年に定められたが、八丈小島は50人以下という少人口だったため、村議会を置かずに、「村民集会」が村議会として機能した。それは、日本唯一の特別措置だったという。その後、1954年に八丈小島の宇津木村が八丈町に合併し(翌年に鳥打村も合併)、日本唯一の直接民主政治は終止符を打つことになった(参照『無人島が呼んでいる』本木修次、ハート出版)。
そんな独自の文化や歴史を育んできた、八丈小島。
その島の灯は、45年前に消えてしまった。
失われた、海の、島の、文化。
その史実もまた、「失われた海」のひとつ、なのだろう。
遠くで海鳥の群れが、甲高い鳴き声をあげている。
無人の島に、鳥の鳴き声と波の音だけが、静かに響き渡ってくる。
のびやかで、澄んだ音――。
その音に耳を澄ませていると、ふと、どこか遠くへと、吸い込まれそうな気持ちになる。