何かが少しずつ失われていた。もう失われたものを嘆くのはやめようと何回思っても、やはり
考えはいつもそこにさまよっていった。(『海のふた』よしもとばなな)
西伊豆の小さな海辺の町を舞台にした小説、『海のふた』。
海の光線が散りばめられているような、美しい小説。そんな美しい物語の中には、主人公が大好きな海が、時とともに変化していく悲しみも描かれている。
そこにはもう生きた珊瑚はなかった。魚もいるにはいたけれど、昔みたいに、色とりどりにむ
せかえるようにはいなかった。(中略)もうどうやってもあのにぎやかさは帰ってこないの
か?
そう思っただけで、私は悲しくなった。こんなに多くの何かを失って、得るべきものはなにか
あったのか? より安全になったわけでも、すごく便利になったわけでもない。ただがむしゃ
らに道を作り、排水を流し、テトラポッドをがんがん沈めて、堤防をどんどん作っただけだ。
いちばん楽なやり方で、頭も使わないで、なくなるもののことなんか考えないで。(同)
時間の経過とともに、人は移ろい、街も変わっていく。そして、海の光景も変わっていく。美しい自然が色褪せていく。もうあの頃には戻れない。その胸を締めつけられるような、寂寥感。自分が長く暮らしたり、幼いころから親しんだ景色であれば、なおさらだ。
旅先の海でも、時としてそんな光景に出合う。
沖縄の慶良間(ケラマ)諸島を旅をした。思えば、ケラマを旅するのは20年ぶり。沖縄には何度も足を運んできたのに、なぜかケラマを再訪する機会には恵まれなかった。
那覇から高速船に乗って1時間ほどで、ケラマの阿嘉島、座間味島に着く。世界屈指の透明度を誇る、青い青い海が広がる。
20年ぶりの島々は、やはり装いを少し変えていた。
阿嘉島には空港のある慶留間島を結ぶ大きな橋がかかっている。港周辺には立派な堤防がつくられ、消波ブロックもたくさんある……。20年前の静かな何もない島とは、ずいぶん違う。
もちろん、島に住んでもいない旅人が、「昔はよかった」というのは横暴だろう。でも、真新しい大量の消波ブロックや堤防を眺めていると、ついつい『海のふた』の物語のように「失われたもの」にも意識が向いてしまう。
人が暮らすうえで、利便性や安全性はもちろん大切な要素。旅人もそれらを享受しているからこそ、快適な旅ができる。でも、それでも、「美しいか否か」というモノサシで考えていくと、海につくられる人工物で美しいものは、ほとんど皆無といっていいと思う。自然の造形美に勝る美しさは、何もない。
それは、海や島の話に限らない。どこに住んでいたとしても、気づけばどんどんマンションが建てられたり、道が立派になっていく。どこか過剰に、あっという間に。そこには、美しいか否かのモノサシはない。「儲かるかどうか」「便利かどうか」といった、合理性のモノサシだ。これから人口が減っていく時代なのに、まだまだ利便性や経済合理性ばかりが優先されていく。
……さて。
旅をつづけよう。
座間味島に渡って、どうしてもじっくり眺めたい光景があった。
それは、座間味島の約1キロ冲に浮かぶ男岩(うがん)。
真っ青な海にポツンと浮かぶ、奇岩だ。高さは約70メートルもある。20年前にダイビングで男岩を眺めた際、その孤高な佇まい、凛々しさに目が釘づけになってしまった。
その姿をもう一度眺めてみたい――。
(次回につづく)