ソトノミストがゆく。「大阪の葛飾応為と角打ちを」


 久しぶりの角打ちだった。
 お店がまた良かった。千住大橋駅の『荒井屋酒店』だ。

 連休明けの5月6日。時刻は夜の7時を少し回っていた。
 その日の労働を終えて、足早に駅へ向かい電車に飛び乗ってやってきた千住大橋。改札を出てすぐの酒店の外からガラスの中を覗いてみると、やってるやってる。ご常連さんが2人位カウンターで立ち飲みしている姿が見えた。なんとも楽しそうだ。
「今日は角打ち、やってますか?」
 はやる気持ちを抑えつつ入店して、念のためレジの女性に確認してみる。
「はい。やっておりますよ。チケットをご購入くださいね」

荒井屋酒店 角打ちはチケット制だ

荒井屋酒店 角打ちはチケット制だ

 ジモトぶらぶらマガジンサンポー(Link)の取材時にたまたま立ち寄ったこのお店。あの時はまだ明るい時間帯だったから、角打ちタイム(午後5:00~9:30)前だった。
 見れば小奇麗な店内の左奥へと伸びている角打ちコーナーに、やけに後ろ髪引かれる心地がして店主に「今度きっと来ます」と宣言して、缶チューハイと乾き物だけ買って店を出たのだった。

「連休中は角打ちお休みしてるんですよ」
 5月に入ってGW中に行こうと考えてお店に電話してみたら空振りだった。「でもまた6日からやりますから、是非に、どうぞ」そんな返事を聞いていたから今日は待ち遠しかった。仕事を終えるとちょっとした遠足の気分になっていた。
 まあでも幾つになっても初めてのお店というのは勝手が判らなかったりするから緊張するものだ。それに大概の角打ちスペースは手狭だから、ご常連さんたちの輪に入れなかったりするとポツンと孤独な飲みになったりもする。

おつまみ100円 美味しいドリンク300円~

おつまみ100円 美味しいドリンク300円~

 そんな心配をよそに、こちらのご常連さんたちの親切なこと! 挨拶も交わしてくださって、おススメのお酒とかご常連さん同士の人となりなんかも教えていただいた。
 また、チケットを購入するレジの方とは別に、角打ちコーナー奥でドリンクやおつまみを提供してくださる角打ち専属の方(いわばゴルフにおけるキャディ、またはボート競技における舳手)もいてくれてとても安心だった。
 やがて次々とご常連たちの来店があり、気が付けば満席状態に。賑やかにあちらこちらで会話に花が咲き、さながら同窓会のような雰囲気は楽しかった。

 と、ここまで書いてきて重要なことを思い出した。
 とにかく最近忘れっぽいソトノミスト。冒頭、「久しぶりの角打ちだ」なんて書いておきながら、そうだ、2週間前にも角打ちしていたのだった。池袋の三兵酒店で、スペシャルゲストも同席しての角打ちを忘れていた。忘れっぽいから記憶力を維持するっていうイチョウ葉エキスかなんかを飲んだ方がいいかもな。

昼間の三兵酒店 右シャッターが角打ちスペース入口

昼間の三兵酒店 右シャッターが角打ちスペース入口

 いや三兵酒店はどうも角打ちしているという感覚が抜け落ちてしまう。それは入口から酒屋の店舗としてのスペースと、角打ちスペースが完全に分離されているものだから、酒類の陳列されている様子を見ずに飲めてしまうからなのだろう。
 さてさて、そのスペシャルゲストとは本サイトTabistory.jpで連載されているMomoさんだ。2年前に初めてお会いして以来だった。
 現在フリーライターとして活躍されているMomoさんは、大阪を拠点に様々な大衆芸能や大衆文化を研究している。連載中の「心はだか、ぴったんこ~女ふたり、立ち呑みの旅~」(Link)は、大阪(主に西成)のディープな酒場を巡る2人の女性(酒飲みマブダチ斉藤さんと)の放浪記だ。酒場の人々との軽妙なやりとり、酔っぱらった大阪のおっちゃん観察、そしてストリップや旅芝居・大衆演劇など劇場での四方山話が実に面白い。

 2年前に会ったあの時を思い出してみる。
 廣岡編集長を介して開かれた会議(飲み)の席は、ときどき(×随分)利用させてもらっている池袋の焼きとん「みつぼ」だった。
 焼きの煙が漂う通りから店内に入ると、目の前にドーン! と奥まで突き抜けている左右の両カウンター席の真ん中の通路がまず目に入る。店奥へと通じるこの狭い通路は店員さんが注文を取っては料理をせっせと運んでくれている専用通路だ。間違えてお客が通ると叱られるのでご注意を。って、何を隠そうビギナー時代のソトノミストはそこを通ってしまって恥をかいた事があるのだ。まあそんな東京の大衆的な酒場を、大阪からやって来た彼女は気に入ってくれたようだった。
 少し遅れて合流した私は会うなり、Momoさんのツイッターのプロフィール写真の絵について「あれ、葛飾応為(おうい)ですよね!」と尋ねてしまった。彼女はあの写真について聞かれたことなど只の一度も無かったらしく「えー!? そんなこと聞かれたの初めてですー!!」と、ことのほか喜んでくれた。
 無論こちらも嬉しかったのだが、あの時「応為」の名前がサッと出たのは、偶然にもそのひと月前に、原宿の太田記念美術館で応為の肉筆浮世絵を見たばかりだったからだ。浮世絵専門のあの美術館へは何度か足を運んでいたのだが、なんとも会話のタイミングが良くて愉快だった。

葛飾応為「吉原格子先之図」 26.3×39.8cm 太田記念美術館蔵

葛飾応為「吉原格子先之図」 26.3×39.8cm 太田記念美術館蔵

 葛飾北斎の娘、応為(お栄)のこの肉筆画はそれほど大きな画ではないが、大胆な構図で細密に描き込まれている。光の中の華やかな遊女たちは格子の向こう側にいる。そして浮かび上がる行灯の明かりに移ろう影がある。この画を鑑賞するにつけ、何か、舞台でスポットライトを浴びる踊り子たちを、仄暗い客席から垣間見ているようなそんな気分にもなるのだ。
 先日、Momoさんおススメの『百日紅』を読んでみた。

映画化もされた杉浦日向子の『百日紅』(さるすべり)

映画化もされた杉浦日向子の『百日紅』(さるすべり)

 そこには応為の生きたあの時代の人々がいきいきと描かれていた。そして北斎と応為の住居は紙くずやらゴミだらけだった。そうだ、変わり者の北斎の90年の生涯で、93回も引っ越しをしたというエピソードを思い出した。部屋が散らかって始末に負えなくなると引っ越したのだというから、よっぽど画業の他には関心のなかった人だったのだろう。
 思えば初めて浮世絵と出会ったのは、永谷園のお茶漬けに同封されていた名画カードだった。祖母が蒐集しており、子どもだった私は小さなカードの中の色鮮やかな世界に魅了されたものだ。特に富嶽三十六景は面白かった。同じ富士山でもいろいろな色や形があって、意外な角度から捉えて見る富士山は特異なモチーフに思えた。
そうだ、今日は富士見坂でソトノミしてみるか。(また出た、思いつき企画)
 東京には数多くの「富士見坂」があるのだが、当然ながら現在は建物が邪魔をしていて昔は見えたが今は見えない富士見坂の方が多い。ネット情報によると護国寺を通る不忍通りの富士見坂はマンションの隙間から見える時があるという。
 そこで富士山を見てやろうと早速その富士見坂へ向かってみる。
 が、しかし坂上から眺めてみるが一向に見えない。写真奥の赤い矢印の辺りに見えるらしいのだが、見えない。やはり良い条件があれこれ重ならないと見えないようだ。

富士見坂から富士山は見えなかった

富士見坂から富士山は見えなかった

 北斎翁が生きていたら「残念な世の中よのう」と、笑われたろうな。
 さて、気を取り直してソトノミといこう。ここは富士見坂下からほど近い護国寺のパブリックスペース。今回はMomoさんから頂いた大阪みやげをおつまみにいってみよ~。

インパクトある大阪みやげ

インパクトある大阪みやげ

 YouTubeの動画で、大阪西成の鉄板焼「やまき」の営業風景を見るのが好きなソトノミスト。あの巨大な鉄板で焼かれたホルモンを取り囲みハイリキで旨そうに流す客の姿が好きで今回はハイリキを選んだ。
 赤いパッケージに「大阪 紅ショウガ天 柿ノ種揚」と書いてある。「わっさー揚げといたで!」とも書いてある。わっさー? わっさーってどんな様子なの? ブサかわ犬のわさおっていたな。毛が長くてぼさぼさっとした感じのかわいい秋田犬。ああいう感じかな。
まあとにかく開けてみよう。
 大きめの粒の柿の種をザラザラと手のひらにのせてみる。
 柿の種としては見慣れぬ色。鮮やかな紅色。もとい! エグいピンク色だっ!
2粒ほど口へ放り込んでみる。
 サクサク食感の中にピリッという辛さはないけれど、香りは正しい生姜だ。正しいレッドジンジャーだ。そしてポリポリ、サクサクとハイリキがすすむおつまみだ。うん、美味しかった。ん、とても良かった。
 なお、残ったこのスナックを持ち帰り、試しにカップに10粒ほど入れて熱湯100ccを注いでみたら喉にやさしい生姜汁になりました。せんべいのシナフワ食感も良かったから、おススメです。

護国寺の富士塚  通称 音羽富士

護国寺の富士塚  通称 音羽富士

 護国寺境内の富士塚を登ってみる。
 この富士塚は文化14年(1817年)に築かれたものだそうで、数えると北斎が57歳の頃だ。また北斎の三女である応為は生没年不詳なのだが、北斎には2人の息子と3人の娘がいたらしいので20代前半だろうかなどと勝手な妄想をする。
 北斎が、「おーい」と呼んでいたから画号を応為としたという説がある。でも栄という名だったのだから、「お栄」 → 「おえーい」→「おーい」→「応為」に変化したのだろうとまた勝手な妄想をしてみるソトノミスト。うえーい。
 富士講が盛んだった頃、この富士塚を登り降りしていた江戸の人々に思いを馳せてみる。現在となっては仁王門をくぐり、境内をすすんだ長い上り階段ふもとの右手にあるこの音羽富士ではあるが、明治に入ってここに移される前までは、階段を上がった本堂の西側にあったというのだから当時の頂上はかなり高いはずで、彼方に臨む富士山は有難く拝めたものだったろう。
 ときに富嶽三十六景の「山下白雨」は富士山の右下に光る稲妻が描き込まれている。やはり霊峰富士は気高く偉大だった。

  頭を雲の 上に出し
  四方の山を見おろして
  雷さまを 下に聞く
  富士は 日本一の山~♪

 しかして世界を驚愕させる富士を描いたのは全く物凄いアイデアを持つ絵師だったのだ。


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