そうだ、マカオにいこう!(4)


 こんなつまらない負け方のまま、ぼくはマカオを去れるだろうか。いや、そんなはずはない。今回の戦法は理に適っているから、沈んだあとは必ず浮いてくるに違いない。

 ぼくは常に腹に巻きつけてあるポーチの中から、緊急時のためにとってあった日本円を引きずりだした。1万円札が2枚あった。へそくりにしては出番が早すぎる気もするが、諭吉さんも、マカオの荒波に揉まれるならば本望というものだろう。

 いまにも駆け出しそうな足を自制しながら、換金所へ向かう。換金所にいるお兄さんはまるで「これ以上金に目を眩ませて深みに嵌まっても、あなたの責任ですよ」というような冷たい目をしている。ぼくは念書に素早くサインし、新品のお札を受け取った。

 目ぼしい台を見つけると、すっかり慣れた手つきで人ごみを掻き分けて最前列に出た。きたきた。腹の奥底からふつふつと闘争心が湧いてくる。さあ、勝負を再開しようではないか。

 ぼくは自分の戦法の正しさを証明するために、まったく同じやり方でプレイすることにした。むしろ、そうでなければ再挑戦する意味がない。

 勝負に入る頃合いを見計らい、虎視眈々と機会を伺った。場の流れが大、大、大、小、大、大、大、小というルーティーンになってきている。流れからすると次は大が出るのだが、いかんせん人間というのは保守的なもので、次こそは連続で小が出るのではないかという議論が盛んになされている。事実、小に賭けるひとが多かった。

 だが、流れというのは確実に存在する。流れに乗っている時というのは、面白いくらいにその通りになる。これは主に麻雀で学んだ経験則だ。麻雀は偉大だ。個人的には、ギャンブルをするなら麻雀に限る。そこでぼくは麻雀の神、小島武夫氏に敬意を払い、迷わず大に賭けることにした。

 結果は、大。やはり予想通りだった。小島氏ありがとう。まわりでは多くの敗者が「まさか」と落胆の声をあげる。その後も流れに身を任せ、大、大と賭け、簡単に3連勝した。さっきまではあんなに出なかった3連勝。それが空気を変えるだけで、いともあっさりと出た。これこそギャンブルなんだと、思わずぶるっと身震いした。

 そのまま僕は波に乗り、3連勝を連発した。完全に流れがきている。チップが手だけでは収まらなくなり、ポケットは不自然な膨らみ方をしてきた。
 その時点でのチップを数えてみると、7万円ほどになっていた。すでにはじめに負けた分を取り返し、総賭け金5万円に対して、2万円ほど勝っているという具合だ。

 ふと、ある考えが脳をよぎった。ここら辺で潔く身を引くべきではないか。もはや自分の戦法の正しさを立証し、収支もプラスになった。これ以上賭け続ける意味はあるのか。ましてや、ここから事態が一転して負けてしまいでもしたら、これまでの苦労が水泡と帰してしまう。勝った2万円で少しばかりの贅沢をして、めでたしめでたしとするべきではないのか。

 保守的な考えを持ってしまうと、さっきまで流れに乗っていた右手は、突然、動くことを止めてしまった。そこでぼくはさらに考えた。

 ここで止めてしまうのも一つの手ではあるが、果たしてそれでいいのか。中途半端な場面でさらっと切り上げて撤退するなど、ぼく自身は望んでいることなのだろうか。いや、望んでいやしない。2万円程度の儲けで満足して、半ば敵前逃亡のような形で去るなんて、むしろ最も嫌悪すべきことだ。後に激しい悔恨が残るのは想像に容易い。

 そもそも2万円あったところでなにができるというのだ。香港とマカオの往復のフェリー代だけで1万円近くするから、差し引くと1万円程度しか残らない。これでは、マカオにある高級エロマッサージを体験できない。いや、そうだ、マカオに失礼極まりない。よし、元々の賭け金は5万円なのだから、これが10万円に倍増したらやめよう。このままいけばすぐ10万円に到達するだろう。そうしよう。

 なかば強引に自分を説得し、意気込んだ。いま思えば、すでにここで勝負は決していた。当初固く決意したはずの「冷静さを保つ」という部分が、すっぽりと頭から抜け落ちていた。そう、ぼくはすでにカジノという「魔物の餌食」になりさがっていたのだ。

 そんなことに気付くよしもなく、ぼくは意気揚々と賭けはじめた。3連勝なんてそうそう出るはずもないのはわかりきったことなのだが、「あと3万円」という欲望がじわりじわりとぼくの脳内を蝕み、焦りを生み出していた。

 こまごまとした負けを重ね、残金はもとの5万円ほどに戻ってしまった。こんなこと、確率の上では十分に起こりうることであり、本来ならば地道に賭け続ける場面である。しかし、ここでぼくは大きな過ちを犯した。あろうことか「ここで一発大きく賭けて当てればいいだけの話ではないか」などという大逸れた考えを持ってしまったのだ。まあ、面倒くさくなったとといえる。

 こんなバカに付ける薬はない。興奮したぼくは機を伺うのもそこそこに、さっきまでこつこつと一枚ずつ賭けてきたチップの重みなど忘れ、10枚のチップを勢いよくテーブルに叩きつけた。

 心臓の脈打つ音が、脳内に響く。もしこれで勝ったら10万円に大きく近づく。なんだ、簡単なことではないか。

 そう、もちろん簡単なことではない。それができれば誰も苦労しない。というか、これこそがギャンブルの落とし穴に他ならない。頭でわかってはいるが、「たった1回の勝負くらい、なにかの間違えが起こってもおかしくないのではないか」という妄想を拭うことができなかった。

 その結果、ぼくの大切な10枚のビックリマンシールは、ガキ大将にブン殴られて奪い去られてしまった。一瞬目の前が真っ白になったが、同時に頭の中のなにかがプツンと音を立てて切れ、なんだかもうどうでもよくなった。自分が冷静さを失ったことにも気付いたが、時すでに遅し。立て直すのも面倒になり、投げやりになった。

 それからのぼくは魂を抜かれた蝉の抜け殻のように、10枚の束をボンボンとテーブルに置いていく。それを嘲笑うかのように賽の目はことごとく予想をすり抜け、チップは回収されてゆく。そんな様子を、ぼくはまるで他人事のようにぼーっと眺めていた。ふと気がつくと、チップはほんの数枚しか残っていなかった。

 数枚のチップをまとめて、力なくテーブルの上に置いた。まあ大体わかってはいたが、ほどなくしてそのチップもディーラーに回収された。ぼくの手の中は、もう空っぽだ。ついでに心の中も空っぽだ。

 一度躓くと、一気に坂を転がり落ちていくようだった。そしてそれに抗う気力もなく、身を委ねて沈んでいく我が身。終わってみれば完敗だった。途中までの一進一退の攻防、少しの勝ち。すべて試されていたに過ぎなかった。

 途中から冷静さを欠いたことが今回の敗因であることは明白だった。理由が明白だったが故に、負けた自分でも驚くほどスッキリしていた。いまのぼくは、まだ勝つほどの度量を持ち合わせていない人間ということだ。絶対的に修行が足りていないのだ。

 これで結果的には5万円ほど負けたということになるが、そんなことはもうどうでもよかった。勝ちに不思議の勝ちあれど、負けに不思議の負けなしだ。

 晴れて一文無しになったぼくは、ひどい空腹に気が付いた。そういえばカジノに熱中しすぎて、時間が経つのを忘れていた。よし、なにか食べに出よう。

 この勝負では、自分の精神の未熟さを嫌というほどハッキリと見せつけられた。そのおかげか、妙な爽快感が身体中を駆け巡っていた。さも大勝ちしたかのような満足げな顔で外に出ると、生温い空気がぼくを包み込む。振り返ると、高層ビルは夕方とは違った顔をして、煌びやかなネオンライトが大きな噴水の水飛沫を照らし出している。

 ここにはまた、いつの日かリベンジにくるだろう。不思議とそんな気がした。その時のぼくは今回のようには甘くないぞ。一皮も二皮も剥けて帰ってくるからな。首を長くして待っておけ、マカオ。

 こうして決意を新たにした新井だったが、その後、意気揚々と乗り込んだフェリーは目的地を間違えており、そのまま夜中に別の島に到着した。

 もはや野宿する余力も度胸も残っておらず、予想外の高額なタクシー代を払って宿まで戻る羽目になったのだった。いくらなんでもそこまですることなかろう、マカオ。

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