ソトノミスト「切支丹屋敷」をゆく。


 子どもの時分、友達が幽霊を見たと言った。
 夜中に、誰もいないはずの空き家に白い人影があって、窓から見えたその人影はじっと動かず、もう一度見たときには消えていたという。
 普段おとなしい彼(マサオ)が、わたしを含め数人の友達にだけ語ったあの話を、すっかり忘れていたあの話を、30年以上経った今思い出すことになろうとは……。

 

 

 本日のソトノミストは東京メトロ・丸ノ内線の茗荷谷駅を降りて、文京区小日向へと向かっていた。
 小日向の西には音羽谷があり、東には茗荷谷がある。その小日向台地へゆくには多くの坂道を歩くことになる。

 

 

 春日通りから「この先階段あり」の標識の奥へと進めば現れる下り坂、庚申坂。
 庚申坂の中腹から正面に見えるのは、丸ノ内線の線路と東京メトロの車両基地。そしてその下にトンネルがぽっかりと口を空けている。

 

 

 薄暗くて日の当たらぬトンネルに入るとひんやりする。この車両基地の真下の長いトンネルを抜けると今度は上り坂になる。その坂の名を「切支丹(きりしたん)坂」という。
 次第に傾斜がきつくなるこの坂を上りきったところに「切支丹屋敷跡」はある。

 

 

 

 

 鎖国を布いていた江戸幕府によって、キリスト教の宣教師やキリシタンを閉じ込めるために建てられた切支丹屋敷。
 元来キリシタンは「吉利支丹」と書いたのだそうだが、将軍綱吉の頃この信仰を根絶やしにしようと「吉利」を「切」に替え、「切支丹」と表記するようになったのだという。

 

 

 この閑静な住宅地に残されている「切支丹屋敷跡」の石碑と説明札。2012年に建てられている。
 この石碑と説明札が建てられた2年後の14年のこと。この屋敷跡地のマンション建設に伴った発掘調査で、3体の遺骨が見つかったのだ。
 そしてそのさらに2年後の16年。3体のうち1体の遺骨が、イタリア人宣教師の「シドッチ神父」であることが確定的となったと発表された。
 沈黙するばかりの遺骨から記憶を呼び起こしたのがDNA分析だった。3体のうちの1体がイタリア人であることが判明したのだ。

 シチリア貴族出身のシドッチ神父は、1708年に侍の姿に変装して屋久島から上陸したが役人に捕えられ、長崎を経由して江戸へ護送された。
 そしてここ切支丹屋敷で、儒学者の新井白石の尋問を受けることになる。
 新井白石はシドッチとの対話から得た知識をまとめ「西洋紀聞」と「采覧異言」を著した。シドッチを本国へ送還させることを幕府に提案した白石であったがその提案は差し戻され、シドッチは生涯をこの屋敷で幽閉されることとなった……。

 幽霊を見たと言った、マサオが見た白いあれが、ホンモノだったかどうか実証する術はもはやあり得ないのだが、マサオは確かに切支丹屋敷の向かいに住んでいた。古地図で確認したらそうだった。

 

 

 切支丹屋敷跡を一巡してみてから、北側の坂を下る。この坂は「蛙坂(カエルザカ)」という。坂の説明札を読むと……湿地帯で、池があり、この坂で蛙たちの合戦があり云々と、それらしい事が書いてある。しかしこの坂、江戸中頃の古地図には「蜥坂(トカゲザカ)」と書いてある。カエルなのかトカゲなのか、両生類なのか爬虫類なのか、まあどちらでもいいではないかと仰るかも知れないが、この坂トカゲの方がしっくりくる。歩けば判るが、この坂の曲がりくねり方といったらトカゲの尻尾みたいなのだから!

 トカゲ、いや蛙坂を下りきって、すぐまた次の坂。今度は藤坂を上る。

 

 

 この藤坂であるが、四輪車も通行する坂としては、かなり急勾配で道幅も狭い。「勾配20%」の標識があるとおり、雪でも降ろうものなら車両は別な道を選ぶことになる急な坂。
 さて、この坂を上りきったら播磨坂上にたどり着く。

 

 

 ソメイヨシノが出迎えてくれる播磨坂はたくさんの花見客で賑わっていて、見ごろを迎えた花はほころび、人々の顔もほころんでいる。
 今年はワインを持ってきたソトノミスト。この赤ワインは、シドッチ神父の生まれ故郷シチリア島で生産された「レガレアリ」だ。
 レガレアリに使われているブドウは「ネロ・ダヴォラ」。ネロ・ダヴォラはイタリアのシチリア島原産の赤ワイン用ブドウ品種で、シチリアの土着品種なのだ。
 命をかけて宣教の使命を果たした殉教者シドッチ神父を偲んでソトノミをしよう。

 

 

 コルクを開栓してグラスに注ぐ。春の日差しの中で明るく揺れている赤ワインをひと口含む……。スパイシーでベリー系の果実香、タンニンは軽めで柔らかな酸味がある。爽やかな印象でとっても飲みやすい。
 このワインに合わせるのが現地調達のコロッケサンド。袋がはち切れんばかりにボリュームたっぷりでとってもおいしいサンドイッチの専門店「サンドーレ」で買っておいたコロッケサンドをほお張る。
 想像以上にワインとコロッケサンドの相性はバツグンで、思わず小さくガッツポーズ。

 発掘された頭骨や「西洋紀聞」などの文献から復元されたというシドッチ神父の顔をスマホで見てみる。頭骨の欠落部分はコンピュータ断層撮影装置(CT)や3Dプリンターで補って立体模型を制作し、筋肉や皮膚は樹脂などで再現したという頭部。その自然な表情からは300年前の神父の息遣いまで聞こえてきそうだ。

 江戸幕府による信徒への弾圧を知りながらも渡航を決意したシドッチ神父。はるばるやってきた東洋の異国で見る景色は、神父の黒い瞳にどのように映ったのだろう。
 新井白石はシドッチ神父の人間性と学識に感銘を受け敬意を持って接し、シドッチ神父も白石の学識を理解して信頼し合ったという。

 「信じるものは救われるのだろうか?」と、シドッチ神父と同郷のレガレアリに語りかけてみる。前向きな優しさと繊細さを併せ持ったこの赤ワインはただ沈黙するだけなのに。

 

 


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