002 目下、外出自粛中。窓と、アリスの詩とマルグリットの絵について


 目が覚めて、髪をとかして、コーヒーを淹れるより先に、ほとんどの朝、私は窓を開ける。
 オーディオ器具に凝りに凝っている彼の、血脈みたいに散らばったスピーカーのコードにつまずかないようにして、リビングの窓を開け、仕事場にしている小部屋の窓を開け、彼が起きてくるやいなや、寝室の窓を開ける。

 重いガラスがカラカラと動く音が聞こえると彼は不満顔になり、寒いと言わんばかりに身を縮める。背中に冷たい視線を感じつつ、真新しい空気を吸いこむ。雨の日も風の日も、夏ならなおさら、私は窓を開けずにはいられないのだ。
 理由はもうひとつあって、私はいつも睡眠不足なため、朝のこの儀式がどうしても必要になる。そしてその度に、アリス・モース・アールの詩を思いだす。

 Yesterday is history.
 Tomorrow is mystery.
 Today is a gift.
 That’s why it is called the present.

 アリス・モース・アール(Alice Morse Earle)の名を知らなくても、彼女が日時計を研究していたことを知らなくても、1902年に出版された“Sun Dials and Roses of Yesterday: Garden Delights Which Are Here Displayed In Very Truth And Are Moreover Regarded As Emblems”なんて舌を巻くほど長いタイトルの本を知らなくても、その中に記されている詩の一節を耳にしたことのある人は多いだろう。
 この詩は、後にルーズベルト大統領夫人がスピーチで引用したことで有名になった。映画や小説にもよく出てくる。「カンフーパンダ」とか、たしか老子も似たようなことを書き残している、それから結婚祝いでもらったコーヒーギフトにも印刷されていた。

 古典の詩が現代人の、それも若い女の子の舌に載るのは良いことだ。
 もちろん、おじさんの口から飛びだしてもいい。“Today is a gift”という台詞をにやにや笑わずに言えたら、それも神妙な面持ちで最後まで言えたら、そんな男性はやっぱり格好良い。
 “Yesterday is history. Tomorrow is mystery.”と韻を踏んでいるのも美しい。

 なぜアリスの詩を思いだすのかというと、未知のウイルスとの不安に毎日、戦っているから。
 外に出かけたいけれど、感染が不安で出られない。だから窓を開けると、問題なく今日を迎えられたことへの喜びが外から入りこんでくる。間違いなく、贈り物のような一日なのだ。

 朝に窓を開ける気持ち良さを理解できたのは大人になってからだ。
 以前の私は窓があることさえ忘れているようなタイプだった。しかし、朝のコーヒーやメイクのように、窓を開けることが睡眠不足の気だるさを和らげ、一日を始めるのにうってつけな行動だと気付いたのだ。

 この外側と内側とを隔てている数センチのガラス板は、私たちが窓という目を通して外の世界を観察することができることを前提にしている。
 と同時に、この数センチの厚さと無機質なサッシで作られた窓の向こうに見えている風景が、本当は現実の世界ではなくて、あるいは一枚の絵にすぎないのではなんて想像をかきたてる。そう、マグリットの絵のように。あの絵の表題はなんだっけ、そう、「人間の条件」だ。

マグリットの絵

マグリットの絵

 ナショナルギャラリーに所蔵されているこの絵は、マグリットが最も一般的に使用した手法の一つが使われている。つまり、その背景にあるものを非表示にするために物を使うこと。<絵の中の絵>としか言いようのない手法で、彼は、部屋の内側から見た窓の前に、絵で覆われた風景のまさにその部分を現す絵を置いている。
 鑑賞者にとっては絵の中の部屋の内側と外側の現実の風景があるのだ、というのはマグリットの言葉。

 よく似た構図の絵に同じマグリットの「野の鍵」がある。
 一見してガラスが大きく割れているようだが、その割れた破片には窓の向こうに見えている風景の痕跡を見ることができる。
 もしかすると、割れる以前の窓ガラスには外の風景と同じものが描かれていたのかもしれない。あるいは、割れた窓の向こうに見えている風景もまた描かれたものなのかもしれない。窓の内側と外側が一致しているという、私たちが世界を見るときの暗黙の前提が問われている。

この窓に惚れて借りた部屋

この窓に惚れて借りた部屋

 私の部屋の窓はと言えば、理想的な大きさと、向こうに見える植物に惹かれて借りたのだ。
 窓を中心に作られたのではと思える部屋は、風がよく通る(虫もよく入ってくる)。風の音がよく聞こえて、「普通の」雨なら、窓を開けていても水が入りこむことはないところも、気に入っている。たまに濡れていることもあるけれど。
 普通の人はしばらく換気したら、窓を閉めるのだろうけれど、私の場合は朝に開けてから夜、眠るときまでそのままで、彼が嫌がるのも分かるのだけど、そういう習慣が身についてしまったのだからしょうがない。

 目下、外出自粛中。だけど。
 夕方になり、一日の仕事を終えたら、ほんの少しのあいだだけ、散歩に出かける。遠征気分で。本物の(!)太陽の明かりを浴びて、その信じがたい景色の確認作業に徹する。
 見上げればそこに空がある。信号待ちも楽しい。空が見渡せるし、鳥たちがそこを横切るのが見える。草木が風に揺れている。ゆっくりと、少しずつ色が変化してゆく。そうか、もうすぐ夕暮れ時なのだとあらためて実感する。なかなか外を動きまわれないこんなときは、時刻は知っていても、今日が春の一日であることは忘れてしまいがちだ。

バロンが立つパン屋の窓

バロンが立つパン屋の窓

ビルの窓

ビルの窓

たばこ屋の窓

たばこ屋の窓

そば好きの私はこのアイデアに大賛成

そば好きの私はこのアイデアに大賛成

玩具の兵隊が出てきそうな反町駅の窓

玩具の兵隊が出てきそうな反町駅の窓

 空気がからっとしていて、乾いている。身体をさすような感触がある。町が妙に霞がかっていて、夕食時の匂いが立ち込めている。
 散歩がなにより素敵なのは、自由なことだ。何処をどのように歩いても、誰に咎められることもない。ぼんやりしていて、クラクションを鳴らされることもあるけれど。
 ほんの数分で、私はすっかり匂いに敏感な、センチメンタルな自分を取りもどせる。そんなことをあてもなく思いなしていると、ぼんやりしていつの間にか暗くなり始めている。
 長い散歩は女性にはあまりよろしくない。メイクが崩れるし、靴が磨り減るし、日焼けするし、冬は寒いし夏は暑いし。虫に刺されたら肌の手入れが大変だ。というわけで、用事を済ませたらさっさと帰るのがよい。ヒマそうに見えるけれど、疑心暗鬼になったり感傷的になったり、意外に忙しいのである。そうは見えないだろうけれど。

 今年の春がどんなふうに過ぎてゆくか、そしてこれから私たちの生活がどうなるのかなんて分からない。皆、自分の健康と家族や仕事のことで頭がいっぱいだ。何かにつけて疑り深い私は窓の向こうとこちら側が同じ世界なのかとか、本当にウイルスが世界中の人を苦しめているのかと疑ってしまう。
 だって、数か月前の平凡だけれど幸せだった、自由に外を歩いてまわれる日々をしっかり覚えている。私たちは、窓の向こうとこちら側を好きに行き来して、世界を彷徨うことを許されていたのだ。
 私はマグリットに八つ当たりしたくなる。これほど不自由で、妙に現実感の失われた日常なのに、絵の表題が<人間の条件>だなんてちょっと皮肉じゃない?


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