第3回 「バッファロー・ビル」


 モンタナ州ビリングスから、ワイオミング州を目指して、白いフォードを走らせる。両州とも日本人には馴染みが薄いが、ワイオミング州にある町の名前をいくつか挙げたらどうだろう。
 シャイアンに、ララミー、それから、サンダンス。

 シャイアンはインディアンの部族の名前だし、ララミーは古いTVシリーズ『ララミー牧場』の地名だし、サンダンスはポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの名作映画『明日に向かって撃て!』でレッドフォードが演じたのがサンダンス・キッドだ。
 サンダンス・キッドというのは西部開拓時代の悪名高いアウトローの名前だ。サンダンスにある刑務所からその渾名が付いた。レッドフォードは、自らが主宰する映画祭にその役名からサンダンス映画祭と名付けた。
 つまり、ワイオミング州は、数々の西部劇の舞台になっている場所なのだ。涙なしには観ることができない『ブロークバック・マウンテン』もそうだ。

 州の別名が「カウボーイ・ステイト」というくらいだ。我々日本人にはカウボーイといえばテキサスのイメージが強いから、僕はカナダでカウボーイしていたのに、友人から「テキサス行ってたんでしょ?」などと言われることがあった。その歴史は春に刊行される著作に譲るため、ここでは紙幅を割かない。
 簡単に言うと、スペインから伝わり、メキシコからテキサスに入ってきたのが牧畜の技術や文化であったため、テキサス人には「元祖」のような誇りもあろう。それでも、ワイオミング、モンタナ、コロラド、ユタ、カリフォルニアなど西部一帯、そしてカナダにまでカウボーイの文化は根付いている。

 旅の3日目。僕が向かったのはワイオミングのコーディーという町だ。およそ300キロの道程。
 寄りたい場所というか、走りたい道があって、少し遠回りをして行った。真っ直ぐ南へ下りて行けばいいのだが、少し西へ逸れると212号という道路に入る。これはベア・トゥース・ハイウェイという道で、CBSのチャールズ・クロルトという記者が「全米一美しい道」と言った山越えの道なのだ。
 実は僕は2009年の夏に、この道を通っている。その際は逆方向からだった。せっかくここまで近くに来ておいてその道を往かないのももったいないから、回り道してでも入ろうと思ったのだ。
 小さな集落をいくつか通り過ぎて、人里を離れると212号は高度を上げていき、グッと空が近づいたようになる。それに伴って、全開にした窓から吹き込む空気は涼しくなる。最も高い地点で3000メートルを越えるので、森林限界になり、山肌には樹木がまばらだ。
 黄緑と薄茶を混ぜたような草の色も、空の色も淡く、そこに浮かび上がる山々の稜線もどこか柔らかい。

 

 

 時折車を止めてカメラを構えると、風以外に音はなく、視界に茫漠と広がる神の創造物は、どんなレンズでもほんの、ほんの一部しか切り取れないことに、色彩は摘出できないことに、落胆させられる。
 都会にいると意識することはない神の存在を、思ってしまうのだった。宗教が何であれ、そんな神妙な気持ちにさせる、霊威に圧倒されるような場所なのだ。僕は死んだら、こんな場所を渡る「千の風」に、もしくは冷涼な湖に溶ける一滴の水にでもなりたいと思う。
 ベア・トゥース・ハイウェイのようなところに人生で二度も来るとは思わなかった。英語で、心の中で辿る思い出を“memory lane”というが、まさに思い出の小路をなぞるようなドライヴであった。

 

 

 ワイオミング州コーディーは、「バッファロー・ビル」一色の町だ。ツーリスト・インフォ・センターにも、町の壁面にも、レストランのグラスにも、バッファロー・ビルが描かれている。
 というのは、この町を作ったのが、通称バッファロー・ビル、本名ウィリアム・フレデリック・コーディーという一人の男なのだ。
 僕はひとまず、彼の末の娘の名前が付けられたアーマ・ホテルに宿を求めた。1902年開業の歴史あるホテルだが、こじんまりしていて、フロントデスクも通りから入ってすぐの狭い通路にあった。
 僕の前に一人、中年の女性客が係のおじさんと話していて、それを聞いていると、
「今夜の部屋は、もうスイートしかないんです。一泊150ドル」
と言っている。
 彼女は、「仲間と相談する」と言い残して、一旦出て行った。だから、僕はしばらくぶらついてからまた来ることにした。
 「さっきの女性は戻ってきましたか?」
 おじさんに尋ねると、「うんにゃ」ということで、スイートルームを確保した。横に長い部屋で、左手にベッドが一つ、右手に二つ。ベッドは異常に高く、家具は古い。スイートといっても、今の感覚では豪華とは言い難いのだけど、僕は雰囲気を楽しみながら、「バッファロー・ビルの幽霊でも出てこないかな」と思いつつ、左手のベッドで一人で寝た。

 翌日は、バッファロー・ビル・センター・オブ・ザ・ウェストという、博物館巡りだ。ここは五つの博物館が一つになった施設で、インディアンの歴史や自然史、銃器の歴史などが学べる。中でも、僕が最も興味があったのは、もちろんバッファロー・ビルの生涯だ。
 ウィリアム・フレデリック・コーディーは、言うなれば、当時における世界最高のエンターテイナーであり、世界一のセレブリティである。

 1846年、アイオワ生まれ。8歳でカンザスに移り住み、その地で馬に親しんだ。ビルが11歳の時に父親が亡くなった。それにより、幼くして家長となってしまったビルは、ワゴンを牛馬で引いて手紙や物資を西部に運ぶ配達員として大平原を旅して働いた。
 10代の頃は、早馬で手紙を届けるポニーエキスプレスという、短い期間だけ存在した特急便で乗馬の腕を磨いた。大平原を探検する軍隊の案内役や斥候として雇われたこともあり、軍とのつきあいはその後長きに渡ることになる。
 カンザス・パシフィック鉄道が敷設された際には、労働者のために食肉としてのバッファローを供給するハンターとなった。誰よりも狩りに長けていたため「バッファロー・ビル」という渾名が付けられたのはその頃だ。
 余談だが、映画『羊たちの沈黙』に出てくる連続殺人鬼は、捜査官たちからバッファロー・ビルと呼ばれていた。太った女性ばかりを殺害し、その皮を剥いで「服」を作っていたことから、ハンティングの名手だった彼の名前が呼び名とされたのだ。

 1869年には軍とシャイアン族の戦いにも参加し、「トール・ブル(背の高いブル)」という敵方の将を仕留めている。
 その頃に彼はネッド・バントラインという三文小説家(英語ではdime novelistという。ダイムは5セント)に出会う。バントラインは彼のインディアン討伐の斥候としての探検に同行し、そこで得た情報を基に『バッファロー・ビル 国境の男たちの王』という連載小説をニューヨーク・ウィークリー誌に発表した。
 当時はテレビもラジオもなければ、ニューヨークの新聞が1か月遅れで西部に来るような時代である。東部の都会では、西部の荒野で何が行なわれているのか、男たちはどんな野性的な生活をしているのか、ほとんど分からなかったのである。
 しかし、新聞、小説、ポスターといった印刷技術の発達によって、ビルはのちに、正しい時に正しい場所にいた男として名声を獲得するようになる。

 連載小説によってビルは一気に注目されるようになり、東部の社交界に招かれて質問責めに遭うような人気を得た。さらにバントラインの小説が舞台化され上演されることになった。
 ゲスト席に呼ばれていたビルは、観客に紹介されると人びとの視線を浴びて、ほとんど喋ることもできなかった。上演後、彼は劇団の責任者から週500ドルの給与で、ビル本人として出演することをオファーされた。

 彼はその時は断ったが、バントラインはその後も執拗に誘った。1872年の暮れ、ビルは「失うものなどない」と心を決め、翌年にバントラインが脚本を書いた舞台で、本人役として主演をした。
 初舞台では台詞を全く忘れてしまったが、その後もほとんど台本通りに話すことはなかったという。シカゴの批評家たちには酷評されたものの、劇場はバッファロー・ビルをひと目見たいという人びとで埋まった。ショウは各地を巡って、半年後のニューヨークで成功裡に幕を下ろした。

 ところが、週に250ドルしか払われず、バントラインがふんだくっていることが分かると、ビルは仲間たちと自分の劇団を結成することにした。
 ビルの一座は順調に人気を獲得していき、彼はより本物らしい衝撃を観客に提供したいと考えた。「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」というタイトルで1883年に始めた興行こそ、ただの労働者だったカウボーイを、勇敢な正義の味方というイメージに強烈に形づくる鋳型となったものである。
 彼は公式にはこれを「ショウ」とは呼ばなかった。あくまでも教育的意義を持つもので、本物を見せることを追求したという。ヘラジカ、熊、バッファローといった本物の動物、本物の射撃(空砲も使用したが)、本物の馬芸やロープ芸、インディアン役には本物のインディアン。
 ビルは戦争においてインディアンを殺害しているが、ラコタ族酋長の「座っているブル(Sitting Bull)」には出演をしてもらい、お互いの難しい性格に時々困りながらも長い友情を築いた。

 ビルは長髪に立派な口髭、大きなハット、腿まであるブーツ、派手な刺繍やフリンジの付いた上着で身を飾り、人びとの西部の男に対する幻想と、自らのカリズマを作り上げていった。
 ワイルド・ウエストは成功を収め、彼は巨万の富を得たが、11歳になる娘も亡くし、ほとんど家に帰らず興行を続けたため、妻は離婚訴訟を起こすに至った(のちに復縁)。
 ビルは息子も幼くして亡くしている。その後彼の劇団に加入したジョニー・ベイカーという13歳の少年を息子にようにかわいがり、ベイカーはビルが死ぬまで仕えた。
 そうした個人的生活の困難には直面しながらも、一座は快進撃を続け、イギリスに招かれた。200人の団員と動物を連れて海を渡ったのだ。当地のあらゆる階層から好評を博し、ヴィクトリア女王の前での特別公演もしている。ホワイトハウスではクリーヴランド大統領に謁見し、パリの万国博覧会でも公演し、そこでの初日はフランスのカルノー大統領が観覧した。スペイン、イタリア、ドイツと巡業し、その頃にはビルは世界的なスーパースターとなっていた。

 1890年のアメリカの国勢調査が「フロンティアはもうない」と宣言した。国土の開拓が行き渡ったということで、つまりカウボーイの時代に終止符を打つトドメの言葉である。
 インディアンは文化的殲滅に直面していたが、ビルはワイルド・ウエストの中でそれを保存しようと努めた。ヨーロッパ公演の中では、インディアンを“The American”と表現することもあった。
 観客に飽きられないように、アラブや日本の馬乗り、ロシアのコザックなどを公演内容に組み込んで、インターナショナルでエキゾティックな刺激も取り入れた。後期には、教育的というよりも、むしろ見世物的な要素も多くなった。彼の苦労が窺える。
 女性の権利にも敏感で、アニー・オークリーという女性のスターが劇団にいたが、彼女には男性とも対等に馬の競走をさせ、女性性を失うことなく男性を打ち負かすことができることを証明させた。女性の選挙権を求める運動にも協力している。

 いささか伝説めいたバッファロー・ビルの人生だが、僕が彼に強く惹きつけられたのは、その人間らしい側面だ。ワイルド・ウエストの成功の裏で、数々のビジネス投資に失敗している。石炭、石油、農場、牧場、ホテル建設などなど。
 1910年には、64歳のビルは2年間のさよならツアーを発表した。しかし、終わりが近づくにつれ、投資での失敗により引退するには充分なカネがないことに気づいた。そのため、後半は「さよならツアー」と掲げることをこっそり止め、1912年も興行を続けている。

 ワイオミング州に自分の名前を持つ町、コーディーを作ったのは彼の執念だ。1917年1月10日、偉大な伝説を遺して、その生涯を閉じた。
 僕は、この人間くさいスーパースターも吸ったであろう同じ空気を胸に取り込むことができて、とても満足だった。
 当時「世界一、世界を見た男」と言っていいかもしれない。死んだら風になりたいが、彼の何十分の一でも生きたいものだ。

 寛大で、不屈で、偏屈で、滑稽で、何より自由だった男、バッファロー・ビルに後ろ髪を引かれる思いで、僕はコーディーの町を後にした。

(つづく)


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