Level.1


 

 

 わたしの海外旅行好きは、間違いなく、初めて行ったベトナム縦断旅行からだと思う。
「ベトナム行こうよ。すごく楽しいよ!」
 ウナギ屋のバイト仲間に誘われ、わたしは、ひれ酒の準備をしながら、「いや、どうしようかな? いま貯金したいからなぁ」なんて、たいして何も考えていなかったのに、お茶を濁していた。
 ベトナムというと、フォー、春巻、アオザイ、青パパイヤくらいしかイメージはなかったが、近所のベトナム料理屋さんがおいしかったので、ちょっと興味はあった。でも海外なんて行ったことがなかったので、なんでみんな大枚はたいて飛行機に乗るのか、わからなかった。それだけあったら、あのベトナム料理屋さんに 何十回も行けるのに。
 それでも最終的に「行く!」となったのは、人付き合いに不器用だったわたしが、引くような自己紹介を披露しても、まったく動じず ほがらかに笑う彼女に とても好感を持ったからだった。

 その当時、わたしは、よくかっこつけて真顔で「本は友達」と言っていた。
 キャプテン翼のつばさくんが、「ボールは友達」といえばさわやかだが、友達のいない変わったやつが言う「本は友達」は、「友達がいないうえに、おしゃれも美容も知りませんが、文学至上主義気取りの中二病で なんとかしのいでおります!」という痛めの宣言に他ならない。これから芽生える友情をけん制する、そこそこのジャブである。
 これは、『友達がいないから人付き合いが不得手、友達作りが不得手だから友達ができない』という、政治でもテコ入れできないようなシンプルでガッチリした悪循環である。
 同じバイト先ながら、あまり顔を合わせたことがなかったので、私のへんな自己紹介も気にせず、声をかけてくれた彼女のほうも名乗った。
「わたし、あだ名はゴルバチョフ。ゴルって呼んで」髪をかきわけながらそう言った。目を凝らすと、さらした額に見えるか見えないかくらいのうすい傷がある。そうか、だからゴルバチョフか。彼女の自己紹介は、本家よりずっと成功している。だってわたしは彼女をいっぺんに好きになったもの。

 そんなわけで、わたしは親友になるであろう彼女に「行きたい!」と告げた。彼女が見事だったのは、その後もだった。
「行きたい!」を聞くやいなや、日程を決め航空券を調べ、旅で大体どのくらいの費用がかかるか、まず教えてくれた。
 うんうん、とうなずくうちにバイトが同じだったので、バイト代が入るタイミングで、「じゃあ、飛行機代もらうね」とピンはねのように、確実に費用を捻出させた。流れるような段取りである。あまりのスムーズさに、
「いやぁ、今月はなんだかお金がないなぁ」
 その理由すらちょっと忘れるくらいだ。
 遠足は、『家に帰るまでが遠足』だが、海外旅行は『行くといった時からもうバックパッカー』だ。貧乏旅行の序章がもう始まってる。
 彼女曰く、行き帰りの飛行機代はかかるが、現地に行ったら、ホテルは安いし、食事もタダみたいなもんなので、航空券だけ買っとけば、もう心配ないとのことだった。
 彼女の説明は、出発までに再度湧くであろう、「やっぱ高そう」という私の迷いも打ち消した。飛行機も押さえたし、もう口約束にはならなかった。自分は、彼女に飛行機代をおさめると、バイトに精をだした。

 あっという間に、その日は来た。
 一緒に行く彼女曰く、「わたしはアジアに強い大腸菌をもう手に入れてるけど、はなちゃんはまだ持ってないから、胃腸薬はぜったい持ってきた方がいいよ」とのことだった。
 どうやら、アジアの大腸菌についての予防接種を、私は受け忘れているらしい(そんなものはないない)。彼女の吹かせた先輩風に吹かれながら、初心者のわたしは従順に、正露丸とキャベジンを何回も読んだ海外旅行のガイドブックと一緒にバックパックに詰めた。
 旅は、9日間。ベトナムの宿は、現地で調達。私たちは旅立った。
 途中、台湾経由で一泊。台湾の宿だけは予約してあって、すぐ見つけることができチェックインした。天井が鏡張りでやけに風呂場が広いホテルだった。市街へ出て火鍋を二人でつついたら おいしかったので、どんどん追加して食べたら、あっと間に換金したばかりの元を、ホテル代をぎりぎり残して、ほとんど使い果たした。ホテル代をぼったくられたら、いったいどうしようと、少しドキドキしながら寝たが、翌日早朝のチェックアウトはなんとか大丈夫だった。なんだ、心配して損したわ!と思いつつ、甘い卵焼きがはさんであるサンドイッチを食べて、飛行機に乗り込んだ。

 ベトナムは細長い国だ。地図で見ると、ポキっと折りたくなるくらい、南北に長く北の首都ハノイと南のホーチミンだと、季節が違うくらい気候が異なる。ゴルちゃん曰く「ハノイが京都っぽくて、ホーチミンが大阪っぽい」そうだ。ベトナムは関西で事足りるのかな、なんて思いつつ、窓から外を見た。
 飛行機が目的地に近づくと、パセリより濃い緑と赤い土が、窓の下に広がっている。絵具で原色を塗ったみたいにはっきりした色。こんな景色は映画でしか見たことがなかった。そのせいか、頬杖を突き、なぜだかアンニュイな女優のような気分になった。すごい憑依力だ。誰にもキャスティングされていないのに。

 

 

 ノイバイ空港に降り立つと、すごい湿度だった。飛行機を出た時点でもう空気が、ずっしりしっとりしていた。それまで、空気って山に行けば、多少「おいしい」くらいで、そこまで大差ないと思っていたけど、全然違った。スナック菓子とか袋開けたら30分くらいでしけそうな湿度。飛行機から降り立っただけで潤う髪と肌は、しばらくしたら髪の毛がうっとうしく顔にはりついた。ベトナムの映画を観た時、乱れ髪が終始顏に張り付きがちだったのは このせいかと、みょうに納得した。
 荷物をピックアップして空港を出ると、タクシーとバイクタクシーの人がいて、バスも二台くらい見える。スーツケースにバックパック姿の私たちに、大勢のタクシーの運転手がいっせいに目を向け、声が飛び交う。「エモーイ」「シンチャオエン」「エモーイ」。
 え、英語じゃないよ。いや、英語もそんな得意じゃないけど。

 海外旅行のガイドブックを読むと、大概まず、ぼったくり、スリ、トイレ、なまもの、に注意すべき、と書いてある。トイレとなまものは見てわかる。でもスリの人はスリという名札もしてないし、ぼったくりの人は「ふつうの店はいくらなのに、うちはその倍でやっとりまーす」とは説明はないし、記載もしてくれない。事前に調査し自分で注意深く見抜き、用心するしかない。それだけでも十分に初心者の私にはハードルがいきなり高いのに、言ってることすらまったくわからない。

 

 

 

 

 そうか、わたしはペーパードライバーだ。ペーパードライバーが急に路上に出されたんだ。いや、ペーパーの人だって、路上実習とかあったはずだが、今のこれは、モナコだ、きっと。目の前で熱い戦いの火ぶたが切っておとされたんだ。しかもこの車見たこともない。わたしはスタートラインでエンストした。プスンと止まって、うんともすんとも言わなくなったエンジンを抱えたまま、「あー宿も予約せず出てきちゃったなぁ、詰んだ」とぼんやり思った。

 完全に思考フリーズしているわたしの横で、ゴルちゃんがタクシーの運転手たちとやりとりしている。
「チャオエン」「バオニューティエン? ダックワァ!」
 何人かと二三、やり取りして
「はなえちゃん、このタクシーで行こう!」とスーツケースをタクシーの運転手に渡した。
 フリーズしてたわたしはまだ、状況が理解できない。
「えっ、ゴルちゃん、もしかしてベトナム語しゃべれるの?」
 わたしのスーツケースも運転手に渡し、振り返りながらゴルちゃんは答えた。
「ベトナムに留学してたんだよ」

 急におりたった救世主の横で、わたしは安堵してタクシーに乗り込んだ。この書記長に一生ついていこう、と心に決めた瞬間である。

 

 

 
(Level 2に続く)


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