「今年は寒いよ」
と1年ぶりに会ったオリーブさんが高い背を丸めるようにして肩をすくめて言った。
オリーブさんは、ヨーロッパの街ならばどこでも必ず一つは見つかるぽっかりとした広場で週末ごとに開催されるマルシェに小さなテーブルを出し、オリーブの木で作ったフォークやスプーン、チーズ入れやボウルなどを売っている人なので、私は勝手に彼のことをオリーブさんと呼んでいる。喋るときに少しだけ前屈みになるのが彼の癖だ。本当の名前は知らない。
「今度一緒にワインでも飲みに行こうって誘ってみていい?」
と聞くとユークは苦笑いをして「君がそうしたいなら」と答えた。
流暢なフランス語を話すわけでもなく、ただただ興味と辞書と、お世辞にもうまいとは言いがたいフランス語に身振り手振りで人々とコミュニケーションをとる私をユークは面白いと思っているだろうけれど、時々得体が知れないとも感じているだろう。
5年前に初めてエクス・アン・プロヴァンスのマルシェでオリーブさんと話した時は、彼が作ったバターナイフを1本買った。「なめらか」という日本語を教えると、オリーブさんは、
「なめらか、なめらか」
と二度ほどころころと口の中でその言葉をくり返し、ノートにそっとメモを取っていた。
その次の年、エクスに着いた翌朝にマルシェで彼のテーブルに寄った時は、スプーンを2本買った。そのスプーンで食べるスープやカレーや炒飯、ヨーグルトもシリアルもなんでも美味しい。そしてスプーンの表面はいつまでもつるつると美しいままだ。
3年目、いつものテーブルのところに行ってみるとオリーブさんはいなかった。やる気があるんだかないんだかわからない様子で机の上に少しずつ並べられたナイフや小鉢、スプーンなどを「新作かな、これは何かな」と言いながらユークと見ていると(時々、本当に何の用途かまったくわからないものも並んでいて、でもこれは何? と聞くのは失礼かなと思っている)、自分の店をほったらかして近くの店をふらふらと覗いていたらしいオリーブさんが戻ってきて、私たちを見つけ、コーヒーのマグを持っているのとは逆の方の手を軽く上げて、特別驚いたふうでもなくにっこり笑って、
「ボンジュール、サヴァ?」
と言った。
それは、丸1年会っていないとは思えないくらい自然な、まるで昨日の続きのような挨拶なのだった。
「元気。そっちは?」というところから始まり、とにかく今年は寒い、という話に落ち着く。
「だって昨日はまるで雪でも降りそうなくらい空が真っ白だったんだよ」
とオリーブさんは言った。
天候をそういうふうに説明できるのはとてもいいことだと思った。
そうやって教えてもらえれば言葉をよく知らない私たちでも、どんな種類の寒さかということをきちんと想像することができる。雪の降り出すほんの少し前の匂いというのを、私やユークは知っている。埃がほんの少し混じったような冷たくて古い懐かしい匂いだ。
オリーブさんの思う、雪が降る前の匂いというのはどんなだろう、と思ったけれど残念ながらそれを確かめるだけの語彙が私にはない。それでも、見上げる空を「今にも雪が降りそうな白」と表現できることを私たちはお互いに知っていて、通じているんだかいないんだかわからないなりに曖昧にうなずきあうことも可能なのだった。
年に一度、4月の朝のざわつくマルシェの片隅で。
「Etoile は、日本語では何?」
とふいにオリーブさんが言ったので「星」と答えた。
細いフォークを手に取りながら「どうして星?」と聞くと「たまたま思いついた」と答えてオリーブさんが笑い、私たちはもう一度空を見た。
「本当は、僕はもっと静かな山の中で暮らしたいと思っていて」
とオリーブさんがコーヒーを啜りながら言った。ここも十分静かだと思うけれど、とは言わずに黙って続きを促すと、
「でも僕の妹が住んでいる山の方はもっと静かで毎晩本当に星がよく見える。それはそれは美しいところ」
と夢見るような表情でオリーブさんは言ったのだった。
「そこに行きたいの?」
と聞くと、
「できれば」
とまた背を丸めた。
それからオリーブさんはがらりと口調を変え、唐突に手帳を取り出して、
「それじゃあ今日は日本語の数字を教えて」
と言った。
私たちは一緒に5や10や50を日本語で数え、オリーブの木で作られたボウルや小皿、カッティングボードにつけられるであろう値段を想像した。
いつの間にか空は4月らしく青く明るく澄みはじめ、辺りには花やパンやコーヒーの香りが漂いはじめていた。