黄色い魚の鍋


 ノイバイ国際空港に降りたってすぐに感じたのは強烈な熱気だった。

 夜だというのに人がとても多く、甘い何かが熟したような強い香りが漂っていた。もともとこのフライトには私が入るはずではなかった。
 急なスケジュールチェンジでグループフライトから抜けてしまった人の穴埋めで呼び出され、私がその人の代わりに飛ぶことになったので、元からアサインされていたグループの人たちは「急に悪かったわね」とか「来てくれてありがとう」という雰囲気で皆、優しく、最低限の仕事を往復の機内できっちりこなしていれば、特に問題のない楽しそうなフライトだった。

 ホテルの部屋で読むための本を何か1冊でもスーツケースに入れてあっただろうか、と考えながら、バスの前で全員が乗り込むまで仁王立ちしていた。その日のクルー全員分のスーツケースをきちんと運転手がバスに積み込んでくれたかどうかを数えて「OKです」と大きめの声を出す。
 ホテルまでの道中、バスの窓から見える街では軒先に椅子を出して、そこに座って何か話している人たちがたくさん見えた。
「明日は、この辺を歩いてみよう」と思いながら、私は窓の外を通り過ぎる景色をぼんやり見ていた。飛行機から降りると大抵そうだけれど、この日もうっすらと頭痛がしていた。早くシャワーを浴びて頭痛薬を飲みたかった。
 その時、前の席に座っていた先輩がくるりと振り返り「よかったら明日一緒に出かける? 鍋を食べに行く予定なんだけど一緒にどう?」と声をかけてくれた。疲れを微塵も顔に出さないような綺麗な笑顔だった。考える間もなく「ぜひ」と頷いた。

 翌日の朝、ホテルから出てみて道路を走るバイクのあまりの数に驚いた。「ぼーっとしているといつまで経ってもここじゃ道を渡れないわよ」と昨日言われた時はそんな馬鹿な、と思ったけれどどうやら本当のようだった。
 信号が見渡す限り見つからない。仕方ないので地図を一度、ポケットにしまって現地の人の後ろにくっついてぐにゃぐにゃと道を渡った。バイクはひっきりなしにクラクションを鳴らしていてまるで挨拶でもしあっているみたいだ。なんて賑やかな街。

 もう一度地図を引っ張り出し、印を付けておいたスーパーマーケットを探す。今回のフライトは急に入ったものなので「突然どこに飛ばされても大丈夫」分の食糧などがもとからスーツケースには詰めてあり、どうしても買いたいものは特になかったけれど、ビールが安いと聞いては買わずにはいられなかった。
 333と書いて「バーバーバー」と読むビールは、クセがなくすっきりしていて水のようにごくごくと飲めるから大好きだし、ビアハノイの香りも金と朱色の缶の柄も好きだ。
 お菓子やシャンプーやフライパンなども見ながらぐるりと店内を歩き、結局ビールだけを3本ほど買って表に出た。
外国のスーパーで聞こえてくるちっとも内容のわからない会話やその時に流行っているのであろう音楽などを聞くのはとても面白い。私という人間など、ここではいないも同然なのだ。

 せっかくなのでお土産に布小物でも買っていこう、と思いついて歩いているとホアンキエム湖に出た。
 湖に沿ってジョギングをしている人や散歩している人、数人で踊っている人たちもいる。それから湖のほとりには、ウエディングフォトを撮っているカップルがいた。
 ウエディングドレスのことなど何も興味はなかったけれど、湖面がキラキラと光って緑まで眩しく、二人が少し緊張しながらも満面の笑みを浮かべていたので、思わずしばらく立ち止まって見つめた。

 小さな商店の前にはおじいさんが椅子を出して座っていて、何屋さんなのか判然とせず、少しお店の前を行ったり来たりすると、おじいさんの足下に退屈そうに寝そべっていた犬がむくりと顔をあげた。
 フィルムカメラを取り出して「写真を撮ってもいいですか」と恐る恐る聞くと「犬?」と指さすので「あなたと、犬を」と身振り手振りで答えた。へぇという顔をしてから、おじいさんは頷き、かと言って特にポーズを取るわけでもなく顔をカメラに向けるわけでもなく静かに写真を撮らせてくれた。
 夕べメモしておいたベトナム語の「ありがとう」を思い出し「シン カムゥン」と言うとおじいさんはまたちょっと頷いた。私もつられてお辞儀をした。

 お昼にグループの人たちが連れて行ってくれたのはチャーカーラボンという黄色い魚の鍋のお店だった。その店のメニューはチャーカーラボンのみ。緑色の壁の部屋に案内され、ねぎやディル、香草やブン(米の麺)などのお皿がテーブルの上にかちゃかちゃと所狭しと並べられた。
 店員さんが、中央の鍋の中の、揚げた魚の切り身の上に次々と野菜をのせると途端になんともいえない香ばしい良い香りがテーブルを包み、私たちは目を丸くしてその一部始終を眺めていた。各自のお皿にブンをのせ、その上に魚としんなりとした野菜を置き、ピーナッツを散らしてニョクマムのタレで恐る恐る一口食べる。
「おいしい」
と言いながら周りを見ると皆も同じように頷いていた。

「これ、川魚なんだって」
と先輩の一人が教えてくれた。ターメリックとたっぷりの油で鍋の中は黄色いぎとぎとに見えるのだけれど、それをブンにからめて食べるととても美味しいのだった。
(あとから調べてみると、魚は雷魚だということがわかった。もし食べる前にその姿を知っていたらちょっと腰がひけてしまいそうだったけれど、日本に戻ってきてから図鑑を調べたので、むしろ雷魚を食べた自分を誇らしく思うくらいだった)

 突然なんの準備もなく飛んだハノイは、バイクとクラクションと排気ガスがとにかく多く、ビールが水よりも安く、きらきらした湖を囲んで人々が生き生きと暮らしていた。いいところだ。
 次に来た時にもまたあのおじいちゃんと犬に会えるかなと思いながら、私はホテルの部屋で帰り支度を始めた。


同じ連載記事