松本行きのあずさに乗る時に何を持ち込んで食べるか、というところから私の旅は始まる。
新横浜の駅にある崎陽軒の売店で、ポケットシウマイをひとつ買い、気分が良ければ宝焼酎の烏龍割りを、まだお酒の気分ではなければただのお茶のペットボトルを一緒に買う。
以前までは新横浜から松本まで直行で行くことのできる「はまかいじ号」という列車があり、とても便利だったのだけれど、困ったことにそれはなくなってしまった。
はまかいじ号には、横浜をイメージした「かもめ」と甲州をイメージした「ぶどう」がヘッドマークに描かれていてとても可愛く、鉄道にまったく詳しくない私でさえそのマークを見ると思わず写真を撮らずにはいられなかった。そんなはまかいじ号がなくなってしまったので、私が松本行きのあずさに乗ろうとすると、それはどうしても八王子からなのだった。
中途半端に鞄にしまったポケットシウマイは横浜線の中でとても匂っていると思う。思うけれども申し訳ないが、ポケットシウマイはやめられない。
八王子で慌てて横浜線を飛び降り、隣のホームにやって来るあずさの指定席に座り込んで鞄からごそごそとポケットシウマイを取り出した時にこそやっと松本への旅が始まる。
松本は大好きな街だ。城下町として栄えた松本は、街並みそれ自体に品があり、国宝松本城もぐるりとそびえる山並みも美しい。どこを歩いても涼しげな良い匂いがするし、私としては美味しいものが多いことがまずとても嬉しい。ほんの一週間やそこらの滞在ではこの街の美味しいものは食べ尽くせそうにない。
ある日の私たち夫婦はお昼過ぎに松本に到着し、そのまま一目散にチャイナスパイス食堂を目指した。
ドアを開けると厨房からは複雑に入り混じったスパイスの香りがふわりと漂い、居心地の良い座席に通されて、なんて素敵なお店なんだと思いながら、棚に並んだ瓶のラベルをじっと見ていた。そういう時に陳皮を見つけるとほっとする。「これ、みかん」と何度でもユークに言ってしまう。
ユークが注文した麻婆豆腐も私が楽しみにしていた桜えび炒飯と自家製ワンタンもみんなとても美味しかった。
食後にコーヒーが飲みたいとユークが言うので、High five coffee standに行き、カフェオレを飲む。持ってきていた本は、平野啓一郎「マチネの終わりに」だった。
知らない土地で読む恋愛小説というのも時には面白い。東京もパリもニューヨークもひどく遠かった。
何しろここは松本なのだ。ここにいるほうがよっぽど小説の中のように私には思える。
「そろそろ4時だからホテルにチェックインして、あっちに行く?」
とユークが言った。
あっちというのは「8オンス」のことで、私は待ってました、とばかりに本を鞄にしまい立ち上がった。赤と黄色が目立つ女の人の横顔とスタンディング8オンスと描かれた照明が入口に置かれている小さな角打ちは、店内に10人も入ればすぐにいっぱいになってしまう。「松本で4時」と言えば、私には必ず8オンスなのだった。
「こんにちは」
と女将さんに声をかけ、ウルトラ怪獣エレキングが置かれたテーブルの下にいそいそと鞄をしまう。8オンスは、隣にある平出酒店が営業しているお店なので、お酒の種類がとにかく豊富で、ワインも日本酒も何を飲んでもみんな美味しい。勢い込んでカウンター奥の女将さんに、
「ナイアガラとデラウェアをください」
「あとミックスナッツを」
とお願いすると、女将さんはいつも通り、言葉少なに手早くグラスを用意してくれた。
薄暗い店内を見回すと、壁にはありとあらゆるお酒の名前が貼られ、小さい音でラジオが流れていて、まるでつい昨日もその前もずっと私たちはここにいたような気持ちになる。
今日は5時半におでんの瀞を予約してあり、食後はジンしか置いていないKINOというバーを覗いてその後また8オンスへ戻る予定だ。
もう一杯だけ何か飲んでから目の前のホテルに帰ってユークは大浴場へ行き、私は部屋のシャワーを浴びて、それからまた寝る前のビールを飲みに8オンスに行く。扉を開けて、
「今日はこれで最後」
と言うと、クールな女将さんが「また来たの」とついに小さくふっと吹き出すその瞬間がたまらなく好きなのだ。
ミックスナッツを噛み砕きながら、
「それで明日の朝ごはんは『栞日』でトーストとスコーンね」
と言うと、ユークは目を丸くしていた。