月末にユークが出張で松本に行くというので、彼の仕事の最終日に合流して私も1泊することにした。
2018年以来、ほぼ5年ぶりの松本だ。荷物はなるべく少なくし、長くお世話になっているブックカフェの栞日に納品するための『酒場の君』を緩衝材で包み、さらに風呂敷でくるんでからトートバッグの底にいれた。
八王子から乗る特急あずさのチケットをユークが事前に購入してくれたので、請求書などと一緒にファイルにしまい、八王子までの電車とバスの時間も付箋に書いて貼って何度も確認していたはずなのに、何故か当日の朝、私は家を出る時間を1時間勘違いしていた。
きちんと早起きしてごみを捨て、猫たちの食事とトイレの世話のために翌朝来てくれることになっている母にメモを書いてからタイマーで蓋が開く自動給餌器のセットなどしていたら、松本にいるユークから電話がかかってきて、
「あれ? まだ家にいて大丈夫?」
と言われた。乗らなければいけないバスの出発15分前だった。
新横浜で崎陽軒のポケットシウマイを買う予定だったけれど時間が無いのでそれはパスして、あずさに乗る直前に八王子駅構内の売店で缶酎ハイとチキン弁当をすごい早さでつかんで買った。あずさに乗るのに手ぶらでなど、そんなつまらないことは絶対に無理だ。
ところでチキン弁当というのは昭和39年発売のロングセラー駅弁で、鶏唐揚げ、スクランブルエッグとドライトマトが乗ったチキンライス、野菜ピクルスとスモークチーズという夢のようなメニューなのだ。
私がこのチキン弁当を知ったのは、伊藤理佐『おいピータン!』という漫画を読んだ時だった。主人公の大森さんがチキン弁当を2つ買って東京大阪あいだの新幹線に乗るエピソードが気に入っていていつか私も食べてみたいと長いこと憧れていた。にわとりの絵のパッケージもとても可愛いのである。
連休前の金曜日で混んでいるかもしれないと思った車内は、思いのほか空いていて、隣の席には誰も来なかった。ユークにチキン弁当の写真を撮って送ると「甲府で誰か乗ってくるかもしれないけど、じゃあひとまずのんびり座れるね」という返信があり、私は慌ててお弁当を食べ始めた。
松本駅の改札を出て、目の前の大きなガラス窓の向こうに山が見えると気分が高揚してなんでもできるような気がしてくる。私は登山をしたこともないのに、海か山かと聞かれれば山が好きだと即答する。
山は、眩しい存在だ。お城口(という名前も気に入っている。もう片方はアルプス口)のエスカレーターを降り、栞日までの道を歩く。翁堂を過ぎ、珈琲美学アベの入口を覗き、ハイファイブコーヒースタンドのぽってりとした青いカップを懐かしく思い出しながらどんどん進む。早足になりすぎて、もしかして通り過ぎてしまったのではと、ふと不安になったちょうどその時にきちんと栞日に到着した。
ガラスのドアを開けて中に入り、スコーンやマフィンの並ぶカウンターで名前を告げると、入口近くの大きなテーブルから立ち上がってこちらに歩いてきて、
「こんにちは」
と声をかけてくださったのが星野文月さんだった。
星野さんの『私の証明』を読み、彼女が東京から松本に移って栞日で選書の仕事をするようになったことを知って、私はいても立ってもいられずに彼女にメールを送り、自分の作ったZINEを栞日で取り扱っていただけることになった。それは、コロナ禍まっただ中の2020年頃のことで、星野さん宛てに本を発送する度に、添える一筆箋に「またいつか松本に遊びに行きたいです。お会いできる日を楽しみにしています」と書いていた。もしかしてもう自分が松本に行ける日は来ないのではないだろうか、とぼんやり思いながら何度もそう書いた。
そうしてやっと初めてお会いした星野さんは、想像していたよりも背が高く快活な人だった。写真でお顔を拝見したこともあったのに、私の脳内には全く別の星野さんがこの3年くらいいたわけで、人の書いた文章を読むというのは面白いことだな、と思った。私は、星野さんの書いたものを読みながら私だけの星野さん像を作り上げてきたのだった。きっと誰に対してもそういうことはあるだろうと思うと私の頭の中というのはなんて勝手でなんて自由なんだ。
それから、私が作ったZINEをすべて購入してくださっているという方ともお会いすることができた。ご自宅からわざわざ持ってきてくださった6冊にはどれもきっちりと読み込んだ跡があってとても嬉しかった。私の手を離れた本達がその方の家の本棚にこの何年間か並び続け、そして大切に読んでもらえていたということがこんなに嬉しいとは、と驚きながら持ってきてくださった本ぜんぶにサインした。
「デンゼル・ワシントンに会えたら死んでもいいと思ってるんですけど、それと同じくらい武塙さんに会えて嬉しかったです」
とまで言っていただき、吹き出しそうになりながら手を振って栞日を後にした。
ユークからのLINEでもうホテルにチェックインできることがわかったので歩いて行く。数年ぶりの松本は、もっと色々前と違っているかもしれないと思ったけれど、そんなことはなかった。女鳥羽川にかかる橋を渡りながら、夕方の柔らかく冷え始めた空気を吸い込んだ。水と土と生活の匂い。
チェックインした部屋でスマホを充電し、友人達へのお土産に買った芋けんぴを割らないよう風呂敷に包んだりしていると、仕事を終えたユークがやって来た。もうあとちょっとで4時である。松本で4時と言えば、それは大好きなバー8オンスの開店時間だ。荷物を置いたばかりのユークを急き立てて8オンスへと向かう。
「こんにちは」と挨拶して店内に入り、ユークの好きな安曇野のナイアガラのグラスワインを1杯ずつとドライフルーツを注文した。女将さんの静かで落ち着いた声が耳に懐かしい。
「ナイアガラ、お好きですよね」
と言われたユークがちょっと嬉しそうに、はいと返事をした。昨日の夜にも同僚と来てその時もナイアガラを飲んだのだそうだ。
「次は何を飲もう、寝る前にもう一度来る時は軽井沢ビールかな、ブルーチーズも食べたいな」と頭の中が一気に8オンスでいっぱいになっていく。
壁際のテーブルの上には、メニューを押さえる役目のウルトラマンの怪獣フィギュアが両手を広げて今日も仁王立ちをし、レジの脇にはピンクのワンピースに身を包んで手を振るエリザベス女王人形が品良くすっと立っている。本当に松本へ来たんだなぁと嬉しくなった。