虫に星に教わる、命のまたたき ~増富温泉・津金楼


 

 

 脱出することにした。普段なら、お盆や連休、ゴールデンウィークのような国民的大移動が起きる時期には、私たちは部屋で読書などをしながらじっとしているのが常なのだけれど。仕事の締め切りや思い煩うことが多くて、干物のようになっていた。同時に、どうにも「あのお湯」に浸かりたいという衝動から逃れられない。コロさんも私も、思い立ったら止まらない生き物なのである。「よし、出かけようか!」

 案の定、山梨を目指す中央道は静かなる渋滞にさしかかった。最初はドビュッシーのピアノのCDを聴いていたけれど、二回転したところで、恒例の「なんでもしりとり」に移行する。どんな言葉でも許されるしりとり。「さる」「留辺蕊(るべしべ)」「ベルガモット」「戸隠そば」「バリウム」「むくどり」「りす」「スルメイカ」「カリウム」「え? またム……?村!」「ラジウム温泉!」終了。

増富ラジウム温泉郷の一風景

増富ラジウム温泉郷の一風景

栗の実がきれい♪

栗の実がきれい♪

津金楼。温泉郷の一番奥にあります

津金楼(つがねろう)。温泉郷の一番奥にあります

津金楼のすぐ横に続く石灰華​

津金楼のすぐ横に続く石灰華​

 北杜市の奥に位置する増富ラジウム温泉峡は、数件の宿と日帰り施設のある、静寂な温泉地だ。日本百名山に数えられる金峰山、みずがき山のお膝元。標高千メートルの清涼な空気は、滔々と流れる渓流と豊かな緑に支えられ、呼吸するだけで肺を通して体が清浄化されるような気分になる。昔からの湯治場で、「本気で病を治したい」方々が全国から訪れる、療養の場でもある。

 お目当てのお宿「津金楼」は、増富温泉峡の一番奥にある。「そういえば、夏にここに来たことってなかったね」とコロさん。そう、初めて私たちが増富温泉デビューしたのは、3年前、12月の寒い時期だったな、とふと思い出す。以来、すっかりとこの温泉に魅了され、私たちの来泉最多記録は、今のところ、この津金楼になっていると思う。

 渋滞のおかげで、到着は夕方4時をすぎてしまった。お馴染みの従業員の方と「お久しぶりです~」「あ~増熊さん!」と挨拶を交わし、鍵だけ頂いてお部屋へ向かう。エレベーターはなく、荷物をしょって、えっちらおっちらと3階まで階段をのぼっていく。

津金楼のお部屋。

津金楼のお部屋。

お宿の前の渓流♪

お宿の前の渓流♪

 清潔な和室には、緑の風と清流の音が対流している。「うーん、やっぱり落ち着くね」とコロさん。「あれ、蛾さんがいるよ」。本当だ。小さな白い羽根の蛾が、窓の縁にじっと止まっている。捕まえて外に出そうと奮闘するが、なかなかすばしこい。ひらりと逃げる。とりあえず、今は蛾の捕獲は諦めて、まずはそれぞれお風呂に出陣することにする。「では、1時間後にね」

女湯。手前が加温浴槽、奥が源泉浴槽です

女湯。手前が加温浴槽、奥が源泉浴槽です

 国内でも屈指のラジウム含量を誇るといわれる増富温泉。津金楼のお風呂は、男湯女湯共に、手前にボイラーで沸かした天然温泉の浴槽があり、奥が源泉かけ流しの広い浴槽になる。源泉は、27~28℃ぐらいの水温しかない。沸かし湯と源泉を「交互浴」するのが、増富温泉の醍醐味である。「こんにちは」と先客に挨拶をして、まずは沸かし湯で5分ほど体を温める。そして、つめたい源泉浴槽にすっぽりと入り、眼を閉じる。

源泉口。飲泉できます

源泉口。飲泉できます

広い窓! ラジウムは「吸う温泉」でもあるので、窓は開きません。

広い窓! ラジウムは「吸う温泉」でもあるので、窓は開きません。

お湯の歴史を刻んできた、浴槽の枠を担っている木

お湯の歴史を刻んできた、浴槽の枠を担っている木

 

 

 初めてこのお宿を訪れたときには、源泉浴槽に足を入れるのが精一杯だったのを思い出す。ベテランの湯治客のおばあちゃんたちが、「こっちのほうがまだ温かいよ、こっちに来なさい」と声をかけてくれた。それは、源泉が注がれる特等席だった。冬だったので、広い源泉浴槽の中では、一番温かいのが注ぎ口の近辺だったのだ(20℃代の源泉でも)。冷たいのを我慢しながら入っているうちに、不思議とポカポカと温まる気がするのが不思議だった。源泉を、注ぎ口から手ですくって飲んでみる。金属臭がして、しゅわっと炭酸のような口当たり。腸が、くるる~と小さな音をたてる。
 
 常連さんたちも、初めてのお客さんも、交互浴をしながら会話を交わす。私は、温泉に入りながら見知らぬ人と会話をするのが苦手なのだけれど、ここではなんとなく会話に参加することがある。或いは聞き耳をたてる。大概は、治療に関する情報交換だ。「増富もいいけど、○○温泉もいいのよね、あそこは飲泉が効くわよ」「こないだもらった薬がね、新薬らしいんだけど、これ飲むと落ち込むから、やめてここにくるようになったの」「そういえば、××さん、抗がん剤の副作用が増富にきて楽になったって言ってたわよ」云々……。そして最後は決まり文句「やっぱり、ここのお湯が一番♪」

 お部屋に戻ると、まだあの蛾がじっとしていた。今度こそ失敗しないと誓い、そっと近づく。捕獲成功。蛾は夕闇の窓の外に静かに飛んでいった。そろそろ、私たちもご飯タイムだ。津金楼の楽しみは、ご飯にもある。

夕食の「一部」です。野菜中心のやさしい味♪

夕食の「一部」です。野菜中心のやさしい味♪

 お部屋に運ばれてくる、お野菜とお魚中心の夕食は、お腹に優しい。和洋混合で、連泊する療養客にも飽きないような味付け、そして体にいい食材をチョイスして出している気配りがじんわりと伝わってくる。ごちそうさまです。

 今回、さらなるお楽しみは、花火。道中、「ドラえもんの花火セット」を購入したのだ。お盆の迎え火をできないかわりに、手持ち花火でいろんな命(この世にいない命)を歓待したいと、コロさんと合致した。お宿にわがままを言って、奥の駐車場でひっそりと花火をさせていただくことにした。
 「ムクさん! 大変、見て見て!」突然、コロさんが叫ぶ。何か大事件なのか。

セミの子

セミの子

「セミの子どもがここに……」コロさんが指差すスポットを見ると、脱皮したセミの子が、ゆっくりと駐車場を歩いていくではないか。しかも、車道の方向に向かっている。慌てて、そっとつまんで、近くの木に止まらせた。セミの子は、おずおずとした風情で静かに木を登っていく。「大丈夫かな」「きっと大丈夫だよね」

 久々の花火は、とても美しくて、儚かった。大はしゃぎながら、花火の光と煙に大いに魅せられ、酔いしれつつ、最後の花火に点火するときには二人ともちょっと黙ってしまった。コロさんにも、私にも、それぞれ迎え火をしたい相手がいるのだ。もちろん、ヒトだけじゃない、生物種を超えて。

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訪問してくれた蛾さん

訪問してくれた蛾さん

 津金楼の夜は、早い。21時でお風呂は終了。コロさんは日本酒、私は焼酎を飲みながら、夜を眺める。いつのまにか、虫たちが網戸や窓ガラスに大勢訪問されている。
 「あれ、この蛾さんは、あの子(逃がした子)じゃないの?」と、コロさん。小さな白い蛾が、ガラスに張り付いていた。あの子……? いや、そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。どの虫たちも、身じろぎもせずに人造物につかまっている。虫も夢を見るのだろうか。夏という短い季節のなかで、限られた時間のなかで、彼等は何を感じているのだろう。

 「あっ! 流れ星!」思わず声を挙げた。そうだ、今夜はペルセウス座流星群が観測できる絶妙なタイミングだった。銀色の光が、闇のなかを一気に駆ける。コロさんも私も、窓の前に立ち上がって天体イベントに息を呑む。そして、星と私たちの間(窓ガラス&網戸)には、相変わらず虫たちが息づいている。
 虫もヒトも星も、みんな生きている。一瞬のまたたきのように。でも、とても確かに。
夜という大きな存在が、この日は、いろんないのちを(動物も植物も鉱物も、この宿に泊まっている皆のことも)抱きかかえて微笑んでいるような、奇妙な感覚におそわれた。それは同時にとても安らかだった。

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 朝は、ゆっくりと訪れる。コロさんはすでに、窓のそばに鎮座して風景を眺めていた。
にぎやかな朝だ。野鳥のさえずり、セミの合唱が混在し、壮大なセッションみたい。「昨日のセミさんも、鳴いているかもだよね」無事に木に登って、鳴いているといいな。
 廊下に出ると、すでにお風呂からでてきた常連の療養のお客さんと会う。「おはようございます」お互いに会釈する。昨日よりもさらに元気そうに見える。お湯の力もさることながら、大きな自然の力も快復を応援してくれているようにみえる。

歴史的な民宿である有井館。昼には、手打ちの美味しいお蕎麦が食べられます

歴史的な民宿である有井館。昼には、手打ちの美味しいお蕎麦が食べられます

お蕎麦を注文すると、サービスでこんなにいっぱい山菜やお漬物が♪

お蕎麦を注文すると、サービスでこんなにいっぱい山菜やお漬物が♪

食べ始めちゃってから撮影した、お蕎麦♪

食べ始めちゃってから撮影した、お蕎麦♪

 お昼は、ちょっとお外へGO! 以前から一度は行きたいと思っていた、有井館という民宿へ車で向かう。ここは、登山客が多く泊まる小さなお宿らしいが、山岳研究家である木暮理太郎先生のゆかりのスポットであることを後に知る。お昼はおそばが食べられると聞いていた。かやぶき屋根の母屋の前には、色とりどりの花が咲き乱れ、虫たちの羽音が耳をくすぐる。おそばを二枚注文すると、お漬物や山菜の煮物等がたっぷりと出された。
 他にどなたもいらっしゃらない静かな空間のなかで、手打ちの美味しいおそばをいただく。喉を清廉におそばが流れていく。

おみやげ物&お食事処の「かもしか」さん。バス停のすぐ横です

おみやげ物&お食事処の「かもしか」さん。バス停のすぐ横です


植物と水からの贈り物を受け取りながら

植物と水からの贈り物を受け取りながら

 温泉郷に戻り、なじみの「かもしか」というお店に顔を出す。お店を切り盛りしているお兄さんもおかあさんもお元気でよかった! 昔のおみやげ物屋さん且つお食事処で、心が落ち着くのだ。滞在中は、ここによくお昼ご飯を食べてきているのだけど、コロさんとお兄さんは天文のお話をしたりしていたことがあったっけ。

 集落を散歩しながら、私はすっかり自分の気持ちが空に溶けているのを感じる。笑顔のコロさんと、威勢の良い虫たち、そして植物や水からのエネルギーを受けて、あっさりと「都会の干物」ではなくなった。
 向こうには、談笑しながら、杖をつきながら、同じく散策をする湯治のお客さんたちが見える。彼女たちの頭上を、当たり前に虫たちが通り過ぎる。いのちを応援するように、そして祝福するように。

 

 

 


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