立春を過ぎると、どんなに寒くてもどこかで冬が遠ざかる気がする。太陽の高度が変わり、見える景色が日に日にくっきりとする。明日を数えたくなる気持ちと、冬という季節のなかにもう少しぐずぐずとしていたい気持ちがせめぎあう。わがままなものだと思う。
「この雪の下でも、地面のなかでうごめいている命がいるんだろうね」
青空の下、真っ白い雪の上の足跡に見とれていたわたしの背後で、コロさんが独り言。群馬県、みなかみ町。宿にチェックインするには早すぎる時間についてしまったので、近くの林道に少し入ってみたのだ。雪面は、太陽の光を浴びてきらきらと輝き、風も止んでしんとしている。でも、静かだと思っているのは、人だけなのかも。季節の移ろいのなか、噴き出しそうなエネルギーを着実に蓄えているたくさんの命たちが、雪面下でたしかに「うごうご」しているのかもしれない。
本日訪れるのは、群馬県の北部に位置する、利根郡みなかみ町の「猿ヶ京温泉」。申年生まれの上杉謙信武将が、この土地で吉夢を見たのが、申の年、申の月、申の日であったことから「申が今日」と名づけられたのが始まりだという。
「そういえば今年は申年だよね」「ムクさん年女……」「ぴき~!」
思えば、5回目の申年に突入した、五十歳目前の自分。そんなに年を重ねたことに、あらためて驚き、いっぱいの感謝、さらにはお詫びのひとつもしたくなる。
お宿は、前から泊まりたいと思っていた「樋口」。5つの部屋しかない、お料理が自慢の小さなお宿である。駐車場に車を停めたとたん、「いらっしゃいませ!」の声。女優さんかと見間違うような美しい女将さんが、ヒマワリのような快活な笑顔で迎えて下さった。
きれいに整えられた清潔なお部屋で、ゆっくりお茶を飲む。「猿ヶ京温泉って、サルと人のいい昔話があるらしいよ」とコロさん。みなかみ町周辺に縁の深いコロさんは、このあたりの土地にくるとちょっと饒舌になる。
猿ヶ京温泉のいわれは、上杉謙信よりもっと昔にさかのぼるらしい。1匹の、手の白いニホンザルが、ひとりぼっちでおなかをすかせていたところを、若い夫婦に助けられ、のちにその夫婦のあかちゃんが大火傷を負ったときに、このサルさんがあかちゃんをここのお湯で治してあげたという昔話。日本の昔話は、ブナの森みたいに、流れる小川のように、いつもどこかほっとするなと思う。
猿ヶ京温泉は、カルシウム・ナトリウム・硫酸塩泉。源泉は56℃と高温で、弱アルカリ性のために肌にも優しい。高血圧や痛風、神経痛、胆のう炎、そしてサルが助けたあかちゃんのように火傷にも効くそうだ。
樋口のお風呂は2つ。男湯、女湯の内湯なのだが、夜からは予約なしでお部屋ごとの貸切ができる。そして、赤谷湖を囲む山々をゆっくり眺めての湯浴み。透明で清らかで、さっぱりとしたすてきなお湯。「うちは加水していないので、熱いと感じられたら、水を入れてもけっこうですので」と、丁寧に女将さん。でも、お水を入れずとも、ちょうどいい温度のお湯を満喫させてもらった。
お湯からあがり、のんびりしていると、同じくお湯を愛でてきたコロさんがお部屋に入るなり「ネコさんが!」と叫ぶ。ネコさん? 「事務所のなかにいるよ、早く」。
そろりと1階に降りて、コロさんの指差す方向を見ると……。ガラス窓で仕切られた事務所のさらに隣のお部屋の暖簾のしたに、確かに、まあるい顔の三毛猫さんが顔を出している。ふくふくとしたそのオーラに見とれているうちに、三毛さんは鳴きながら事務所スペースに現れた。窓越しに、じいっと見合う。このネコさんは、女将さんに聞くところによると、2年前に拾われたのを引き取った子だそうで「こごめ」さんというそうだ。
お客さんスペース(ロビーや廊下等)には出していないそうで、運がいいと出会える福猫さんといったところだろうか。ひとなつこい、いたずらっこそうな目がきらきらしていた。
いざ、夕食。自家製梅酒からスタートし、「群馬特産ギンヒカリ」「さしみこんにゃく」から、「紫大根とキャベツのシーザーサラダ」(まさに地産地消な)から、炊き合わせやら塩麹のお鍋やら天ぷらやら……本当に美味しかった。最後の手作りのかぼちゃケーキも絶品。優しそうなご主人の創作する、丁寧で工夫の凝らされた味の数々に、コロさん共々舌鼓を打ち、おなかいっぱいになった。ごちそうさまでした。
夜間もお風呂が自由に入れるので、夜の温泉も満喫して熟睡。朝はしゃきんと起きて、また美味しい朝ごはん。卵も、ストレスフリーな平飼いの「ネラ」という種類の黒い鶏さんが産んだ卵。揚げ出し豆腐もふわふわにほどけていく。
みなかみ町北部~新潟県境までおよそ1万ヘクタールの広大な面積を有する「赤谷の森」は、多様な生物種を抱いたいのちの森だ。イヌワシ、カモシカ、ツキノワグマ等の野生動物が暮らし、さまざまな命がつながりあっている不思議で美しい地。ここの自然を守り、人と自然の共生を図るべく立ち上がったのが赤谷プロジェクトなのだ。かつてダムやリゾート開発の危機にあった場所でもあるが、時を超え立場を超えて、地域の住民の方々、自然保護団体、林野庁の三者が関わって活動している。
樋口の女将さんは、まさにこの赤谷プロジェクトを応援されてきた一人なのであった。日々、鳥や虫たちの小さな声、植物たちの成長や彩の変化に心を寄せ、耳を傾けてきた人なんだろうなあと感じる。もっとお話したかったです、ぜひ次回!
名残惜しくお宿を後にし、コロさんと向かったのは「たくみの里」。猿ヶ京温泉からは、車で10分ほどの場所にある。なつかしい(と、多くの人が細胞レベルで感じるような)日本の原風景を思い起こさせるこの里は、東京ドーム70個分の面積を持つ「体験型」集落だ。
「たくみの家」と呼ばれる、民家調の建物が点在し、訪問者は昔ながらの手法でのさまざまなものづくり体験をすることができる。木工、竹細工、和紙づくり、そば打ち等、子どもからおとなまで楽しめる里。今回の目的地は、この里のなかで、前述した赤谷プロジェクトが1年半前にオープンした「森の恵みと学びの家」である。
ストラップづくりも、捨てられる運命だった木片を使う。自由に削ったり色をつけたりして、世界で一つだけのオリジナル作品へ変化する。いずれも、木の肌のぬくもりを感じながら、森の生きものたちに思いを馳せることができる、優しくてすてきな体験だ。
赤谷プロジェクトは、森の生物たちの調査研究から、環境教育、各種研修など多岐にわたる活動を現在進行形で行っている。サポーター制度もあるので、関心のある方は(公財)日本自然保護協会のHPをぜひご覧ください☆
https://www.nacsj.or.jp/
たくみの里で美味しい十割そばを食べた後、ゆっくりと東京への帰路。車窓から眺めるブルーベリー畑は、雪に覆われている。「あのブルーベリーとかも春の準備でうごうごしているの? どうにもそう見えないけど……」「植物のエネルギーって簡単に目には見えないからね」とコロさん。「でも、ちょっと声が聞こえる気がしない?」う~ん残念、聞こえません、わたしには!
「あ、ねこ」通過した何気ない民家の縁側にねこさんが。そこは陽が差していた。早春の兆しを、いち早く察知しているであろう、日向ぼっこするねこたち。
ねこたちも野生の動物たちも、草花も木々も、春を知り春を待つ。当たり前の季節のめぐりのなかで、おおきなおおきな流れのなかで、ゆっくり深呼吸する。
気づけば、道端に福寿草が鮮やかな黄色い花を咲かせ、控えめに春を告げていた。