目覚めて間もない眠たそうな春の里山に、ぽつりぽつりと桜が咲いている。風に鳴るしなやかな竹、無造作に現れる菜の花の集落。カミサマのやさしい筆づかい、淡い柔らかな配色。絶景と呼べるものではないが、心の奥にあるおとなしい原始的な部分にそっと語りかけるような、そんな感じ。
宮城県白石市。県南、蔵王連峰のふもとに広がる静かな城下町。その郊外に、コロさんが仕事で出向くことがあり、わたしはお手伝いという名目の「おまけ」で同行させてもらうことになった。仙台で生まれ育ったわたしにとって、宮城県は格別に思い入れのあるふるさとである。心のなかで、小さく「わーい!」と叫んだ。
農家さんを訪ねたり、関係機関との話し合いがあったり、なかなか強行軍の時間を過ごしたけれど、ここはもちろん「せめてさいごは温泉で、ぱ~っと疲れを落としたいよね」とコロさん。ハイよろこんで! と見えないしっぽをパタパタ振る自分。
というわけで……白石蔵王駅から車で10分ほどの、鎌先温泉に向かう。
「ムクさんは鎌先温泉に来たことある?」「アリマセン!」
そうなのだ。20年以上も宮城の土地で暮らしていたのに、県内の温泉には数えるぐらいしか行ったことがないのだった。
きれいに整えられたロビーで宿帳を記入しながら、ふ~っと安堵のため息。ここからは、仕事や世の中とはいったんサヨナラかも。温泉モードにカチっと切り替えようね、とコロさんと頷く。初老の礼儀正しいバトラーみたいな方に案内いただいたお部屋は、予想以上に広くて清潔な和室だった。
窓を開けると、少しだけ冷たく清廉な空気がさあっと入ってくる。スズメたちのにぎやかなおしゃべりもいっしょに。「あのスズメ、虫をくわえてる!」コロさんが指差す方向を見ると、まあるいスズメが、長い太った体の幼虫をしっかりキャッチして屋根から飛び立つのが見えた。春は忙しそう、スズメも人も。
1428年に発見されたという鎌先温泉のお湯は、鉄分がいい塩梅で入っている茶褐色のにごり湯だ。源泉がややぬるめなので、湯口から供給されるお湯は少し加温してあるが、100%の源泉である。木村屋さんは2本の源泉を持っているそうで、最上階の男女別の展望風呂&露天風呂の他、2階にある「天狗岩風呂」「かっぱ風呂」、さらに「山茶花」という名前の貸切露天風呂もあり、34部屋の旅館なのにお風呂の種類が豊富であることがとても嬉しい。
お湯は、惜しみなく湯口から滔々と注がれている。特に「山茶花」では、全身に泡がよく付き、茶色い湯花が浴槽のなかに漂っているのも見える。ほんのりと鉄分の香りがするお湯、熱くもぬるくもない適温である。最初7~8分入り、その後3分ほど休み、また3~4分入り、また休んで……という無限ループのような入浴方法をとっているのだけれど、決してあちちのお湯ではないのに、芯から温まる、温熱療法のような不思議なお湯である。2回目の3分浴で、すでに汗が流れ落ちるほどだ。「キズの鎌先」と古くから言われるように、外傷や術後快復に非常に効能が高いそうだが、神経痛や動脈硬化、リウマチ等さまざまな疾患によく効くといわれる温泉であるという。
お湯に入ってさっぱりとコロさんと落ち合い、お部屋に帰る途中。
「あれ、ここにもお花があるよ」
「あっちにもあったよね」「よくできた造花?」
「いやいやこれは生花だよ、ムクさん」
廊下のあちこちに飾られたお花たち、そっと触れてみると、確かに生きものの繊細な肌触り。お部屋にもそういえば、きれいなお花たちが佇んでいた。後で知ったのだが、木村屋の女将さんはフラワーアレンジメントの講師を務めるほどのお方なのだった。
夕食は、お食事処に案内された。「こんなにたくさんの方が泊まられていたんだね」と、コロさんとあらためて驚く。
ご夫婦連れ、仲良しのグループとおぼしき4人組、親子連れ等々、それぞれが楽しそうに夕餉を堪能中。舞茸の土瓶蒸し、お麩の入った野菜の煮物、こごみの胡麻和え、ホヤの塩辛、小豆羹とサワラの焼き物、お豆と油揚げの炊き込みご飯、他にもどんどんお料理が供されて、すっかりお腹がいっぱいになった。お酒も進んで、ごちそうさまでした。
お部屋に戻り、少し休憩してお風呂へいこうかと話している最中に、コロさんの携帯電話が鳴る。お仕事関連の電話だ。「いったんお仕事は忘れて……」なんて、現代社会ではなかなか難しい。そうこうしているうちに、わたしの携帯電話にも活動関連のメールが次々に入っていることに気づく。でも、だいじょうぶ。お湯は、逃げないから。ちゃんとここに居てくれるから。(しかもここは24時間入浴可能なのです♪)
と、ここで小さなミラクルが起きる。
自動販売機を探しに、1階に下りたコロさんが、またとんでもない発見をしてしまったのだ。部屋に入るなり、「たいへん! ムクさん、ねこさんがいるよ、カウンターに座っていたよ!」と咳き込みながらの報告。「ええ!?」と、腰を浮かせたそのときだった……部屋のなかに、にあ……と小さく鳴きながら、1匹のきれいな猫が入ってきたのだった。
唖然とするコロさん。猫さんは、コロさんの後をついてのご登場。2階のお部屋なので、すぐに上がってこれたのか。猫さんは慣れた風情でくつろぎはじめた。なんなのだろう? キツネにつままれたような気分だった。
しばらく彼女はお部屋でゆっくりしたあと、何かを思い出したように、マイペースで1階へと降りていった。深夜の露天風呂を満喫しながら、ぼんやりと月を眺め、猫について思いを巡らせた。 翌朝。遅めの朝ごはんをとり、名残惜しくもう一度お湯をいただきに。すぐそばでウグイスが高らかに囀っている。1羽だけではない。さらに別の鳥の歌声も。
ロビーに下りると、コロさんとわたしはまた「ええ!?」と叫ぶことになる。白猫だ。真っ白い猫さんが、堂々とロビーに鎮座しているではないか。これはいったい……。
「この子はシロちゃんといいます、まだ若いですがおとなしい子です」にこにことお宿の男性が説明下さる。「昨夜、別の猫さんがお部屋についてきましたが……」「あ、それはアズキちゃんです。もう13歳なんですよ」二度驚く。そんなに齢を重ねた猫には見えなかった。
「利口でね、自動ドアも自分で開けて入ってくるし、エレベーターも自分で乗ります」
「はあ」
「うちは、ペットも泊まれる宿なんですよ」「そうなんですか!」
「でも、その話を聞いてかわかりませんが、ずいぶんと捨てていく人がいるんです。猫を。ダンボールに子猫を何匹も入れて置いていく人とかね……里親探しも大変でした」
シロちゃんもアズキちゃんも、大事にされてピカピカだ。いいひとたちに出会って可愛がられて本当によかったね、と心の底から思った。
陽のあたる玄関先では、茶トラの小ぶりな若そうな猫くんがお出迎え。奥からは、悠然と薄いサビ色の風格のある猫さんが歩み寄ってくる。そして、様々な種類のお花が、風にゆれて時折光る。
鎌先温泉・木村屋さんでも、この農家さんの庭先でも、「花と猫」の絶妙なコラボに出会うんだなと、嬉しくなりながらしゃがみこむ。茶トラの子が、ゴロゴロと喉を鳴らしながら膝にのぼってくる。サビのおばあちゃん猫は、ゆっくりと畑のほうに歩いていく。コロさんは、背後で農家さんたちと立ち話をしている。緋色の春牡丹が、威風堂々と咲き誇っている。その牡丹の下にかくれんぼする茶トラの子。向こうには、シャクナゲの一種だろうか、白と薄桃色の花がこぼれんばかりである。 呑気に春の風景を眺めつつ、わたしはハタと思いついた。花と猫とそして農家さんの関係性だ。花という漢字はくさかんむりに化けると書く。ここで花は猫に寄り添う。猫についていえば、けものへんに苗とかいて、猫。なんとまあ。ここで農家さんとの接点が生まれる。花と猫と農家さんの、なだらかな線描写的関係。
まあ、そんなこじつけをしなくても、お花も猫も、農家さんの多忙な生活には直結していないかもしれないけれど、こんなにも美しい。それで良さそう。そして、どこかでわたしたちは支えあっている。季節のうつろいを眺め、確かめながら、いっしょに時空を歩いている。
ゆるやかで、そして、二度と「同じ」はない、いのちの散歩。かけがえのない一瞬の風を、猫の目線でそっと抱きしめる。