「小学生の頃の夏休みって、特別じゃなかった?」
コロさんが、ふっと尋ねる。
外はミンミンゼミの合唱。負けじとスズメたちが木陰でさえずっている、晴れた夏の午後。
小学時代の夏の思い出は、たしかに、あんなに遠い日々なのに妙に輪郭がはっきりしている気がする。透き通ったビー玉や、おはじき。鉄で出来た風鈴。蚊取り線香の細い煙。
金魚の描かれたうちわ。歩道で堂々と行う花火。涼しい図書館での読書。道端で揺れる巨大なヒマワリ、小川の水に足を浸す心地よさ……。
「なんであんなに毎日楽しかったのかなあ。アルコールもカフェインもニコチンもないのに」と、思わず本音が出るわたし。昭和50年前後の夏の記憶が、自分にとっての「正しい夏」なのだった。 「正しい夏休みを味わう」という目標のもと、この宿にターゲットを定めた。群馬県上野村にある、「アオバトが見られる温泉宿」。上野村に5月から10月に飛来するというアオバトは、オリーブグリーンを基調とする実に美しい色合いのハトである。いつか出会ってみたいな、と思っていた。
この宿を知ったのは、群馬県みなかみ町の温泉大使を務めるライターの小暮淳さんの本だった。
「群馬の源泉一軒宿」など、群馬県内の温泉を網羅した本を多数執筆されている小暮さんの本は、群馬の温泉地や本屋さんで手に取ることができる。丁寧で人情味あふれる文章や写真で、個々の温泉宿の魅力がまっすぐに伝わってくるのだ。やはり、わたしはネット情報よりも紙媒体にあたたかな真実を感じる。 さて、いざ出発。関越自動車道の本庄児玉ICを降り、のんびりとした国道を進む。車窓からの景色が、どんどん緑に呑み込まれていく。「あれ、アユ釣りの人たちだねー」とコロさん。傘をかぶり長い竿をかまえた釣り人たちが、川の中に点々と立っている。浅瀬では、子どもたちがオモチャや浮輪を持ってはしゃいでいる。夏の川遊びに、子どもも大人も夢中のようだ。 静かな集落を越えて、人家もまばらになってきたところに、宿はふっと現れた。野栗沢温泉・薬師の湯「すりばち荘」。こじんまりとした宿の前の畑から、ワンワン!! と複数の犬たちの太い声がお出迎え。
「こんにちは~」と玄関からご挨拶すると、にこにこと親しみやすそうなお兄さんが現れた。お宿の若旦那だろうか。何気ない世間話をしながら、2階のお部屋に案内してくれる。8畳の和室は、窓が大きくて明るい。「なつかしい感じがする……民宿みたいでいいね~」。コロさんと、ちゃぶ台で向かい合ってお茶を飲んだ。
野栗沢温泉の1軒宿である「すりばち荘」のお湯は、アトピー性皮膚炎や痛風を始め、様々な病に効くという。なんといっても、あのアオバトたちは、ここの源泉を飲むのを目当てに飛来しているというのだ。元々アオバトは、集団で海水を飲む習性で知られているが、海のない群馬の山奥に温泉水を飲みに訪れるとは、渋いハトたちである。 明るいうちにお湯をいただこうと、お風呂へ向かう。内湯が男女別に一つずつ。冷めないように蓋が閉められた細長いヒノキのお風呂、その横に箱のような小さなお風呂がある。
小さなお風呂に手を入れると、「わあ、冷たい!」。まさにそれが純粋な源泉なのだった。
大き目のお風呂は、40度ぐらいに加温され、ちょうどいい塩梅である。温まったあとは、エイっと冷たい源泉に浸かる。慣れてくると不思議とぽかぽかしてくるのだ。蛇口から出るのは、もちろん源泉そのもの。少し飲んでみると、まろやかな海水のような味がする。
「なるほど……これがアオバトさんたちのお目当てなんだ」
「何もつけないで、まずはそのまま食べてみて」とご主人。あれ? ほんのりと塩味で美味しい。このうどんは、あの源泉を使って、ご主人が手打ちしているのだそうだ。
70代半ばにはとても見えない、元気で親切なご主人に、上野村の歴史や小話をたくさん伺うことができた。驚いたのは、この山深い上野村が、2億年以上前には海の底だったという事実。あの源泉は、太古の海の恵みなのか。「アオバトは明後日の朝にいきましょう」とご主人の提案を受け、明日はコロさんとのんびり上野村探索をしようということになった。
朝ごはんを食べて、さっそく地図を広げながらお宿を出発。「あ、ツバメ!」電線に、小さなツバメたちを発見。「巣立ったばかりかな?」「あ、いま親がご飯を運んできた」コロさんとしばし、ツバメウオッチング。「こんな小さいのに、東南アジアまで飛んでいくんだものね」
「あれ、オオタカじゃない?」「わ~、きれい!」
悠々と翼を広げるオオタカが1羽、静かな森に消えて行った。 川でも、鍾乳洞(不二洞という関東屈指の鍾乳洞です)でも、吊り橋でも、子どもたちのにぎやかな歓声が聴けたのは、なんだかうれしかった。夏休み真っ盛りの子どもたちは、夏を全身で受け止めていて、生きものらしく健やかだった。
「あの子たち宿題とかぜったい忘れているよね」「夏休みの終わりごろになってあわてるんだよ」「あ~思い出す!」
この日の夕餉は、家族連れやご夫婦でにぎやかだった。「明日は朝6時に出発です!」と威勢のいいご主人の声。いよいよ、念願のアオバトツアー。深酒はやめようと、ゆっくりお風呂に入った。静寂のなか、はやる気持ちを抑えながら。
早朝の空気が心地よい。ご主人の軽トラに追随する2台の乗用車。アオバトツアーには、昨夜お隣でお食事をしていた60代とおぼしきご夫婦、そしてわたしたちの計4名。数分のドライブの後、10分ほどの山歩きが待っていた。用意された木の杖のお世話になりながら、細い山道を登り、渓流を慎重にわたる。ご主人とご夫婦は、慣れた風情でひょいひょいと歩いていく……のだが、情けないことにわたしは足元が不安でどんどん遅れてしまうのだった。それでも、なんとか、コロさんのフォローもあってアオバトのアジト? に到着。アオバトの飲泉場の前に作られた、ご主人手作りの観察小屋だ。 原始の森のなか、息を潜めるようにアオバトを待つ。目の前に湧き出る源泉を取り囲む植物の気配が、濃い。小屋に入って、数十分は経過しただろうか。「アーオーアー、オアー」。アオバトたちの声が少しずつ近くなる。「アオバトはねぇ、すごく神経質な鳥なんだよ。カラスが近づいてもすぐに逃げるからね」とご主人。と、不意にすぐそばの木にアオバトが1羽止まった。こちらの様子をうかがっているようにも見える。1羽、もう1羽。少しずつ、アオバトの数が増えていく。「偵察する子がいるんでしょうか?」アーオー、オアーオー。笛のような少し淋し気な、独特の音階と声色。神秘のハトたちの合唱は、次第に大きくなっていく。そのときだった。バサバサ、バサッ!数十羽はいると思われるハトたちが、いっせいに泉に舞い降りたのだった。「うわ~!」思わず小声で叫びながら、夢中でシャッターを切る。ちいさなデジタルカメラの望遠を目一杯にする。 ファインダーの中のアオバトたちは、恐ろしく美しかった。オリーブグリーンの身体に、青いくちばし。羽にブドウ色があるのは、オスだろうか。どの方々も、たいそう真剣に源泉を飲んでいる。ゴクンゴクンという喉音が聞こえてきそうなほどに。
と、急にハトたちが飛び立つ。「カラスがいま鳴いたでしょう。警戒心が強いからねえ。でも、また来るよ」ご主人の言われた通り、逃亡したハトたちは、ほどなく再び結集。そして、泉にいっせい突入。それを何度も繰り返した。どんどんヒトの世界が遠くなる。 深い森のなかに迷い込んだような気持ちだ。真夏の夜の夢、でなく、真夏の朝の冒険。
そうだ、正しい夏休みには、冒険や探検が必要なのだ。
たっぷりとアオバトの神秘行動を観察させていただき、ゆっくりと山をおりた。まだ頭のなかで、アオバトの声がこだましている。もう少しで車を停めた場所……というときに、「虹だよ!」とご主人の声がした。振り返ると、鮮やかな虹が水面の上に姿を見せていた。
お世話になったすりばち荘を名残惜しく後にし、コロさんの運転で帰路につく。
「いい夏休みでした♪」「昭和の懐かしい夏にタイムスリップしたみたい」
「あ、でもムクさん、宿題が……。なんかの締め切りとか、言ってなかったっけ?」
「きい~!アーオーオアーオー♪」
「あんまり鳴くと、アオバトさんにとりつかれちゃうよ、ムクさん!」
こうして、2016年の、正しい夏休みは終わった。2泊3日の、オトナの夏休み。
そして今もわたしは、時折アオバトの鳴きまねをして、コロさんを困惑させている。