9月初旬のその日は、昼過ぎだというのに夕方のように薄暗く、ひたすらに雨が降っていた。コロさんと湯治宿を出て昼ご飯探しをするうちに、この店「キャロリヤ」に出会った。
中之条駅前の小さな古い喫茶店。「いらっしゃい」とにこやかな初老の男性が迎えてくれた店内には、群馬の観光チラシがたくさん置かれ、大きなテレビモニターに薬師丸ひろ子さん主演の古い映画が流れていた。コロさんは紅茶を、わたしはコーヒーを頼み、さらに野菜サンドとトーストを頼んだ。その野菜サンドは、薄切りのキュウリがていねいに挟まれて、カラシの効いたマヨネーズがたっぷりとかかっていておいしかったのを思い出す。雨に濡れて少し気弱になっていた内側が、じわじわと元気になっていったことも。 湯宿の、体に優しいしっとりした煮物やお鍋を食べていると、無性に喫茶店の軽食が恋しくなる。(ビートルズばかり聴いていて、ふと急にジョー・ストラマーが聴きたくなったりするあの感じにちょっと似ている?)贅沢というかわがままというか。でも、スタバやドトールではなく、断固として「昭和的なその土地の喫茶店」でないとね!というのが、コロさんとわたしの暗黙のルールで、今まで湯めぐりのなか発見したすてきな喫茶店は数多い。
「喫茶店は賑わい」。落ち葉を踏みながら、道端の森の中に見つけた小さなロッジ風の「カフェぶなの森Fuu」。田沢湖高原温泉郷(秋田県)は、路上に人の気配があまり感じられない日だったが、いざ入店してみたら、ほぼ満員で暖かい空気に満ちていた。 海外からの観光客、常連さんとおぼしきひとの明るい笑い声。トマトのピザを二人でつつきながら、コロさんはココア。「ムクさん、飲んでもいいよ~(お酒)」と言われて、少し迷ったけれど真面目にコーヒーを頼んだなあ。斜めに差す太陽の光に11月を感じながらも、寂しげな気持ちはみじんもなかった。
「喫茶店は旅情」。田沢湖畔の名前も分からない喫茶店にも入った。
駒ヶ岳温泉に泊まったときだ。柿が店内につるされていたその店は、貸し切り状態で、「ハム抜きのミックスサンド」をお願いした。かわいいリンゴがデザートに付いてきたときに、「ああ、北国に来ている」と変に感慨深くなったのを思い出す。
「喫茶店は逃げこめる穴」。
草津温泉(群馬県)は、日本の温泉地のなかでもスーパースターだと思っているのだが、平日であってもなんでも、とにかく勢いがあって人が多い。
年配のご夫婦が一杯ずつていねいに入れてくださるコーヒーで、身体も心も安らぐ。ビロードのような椅子も、店内の明かりも絵画も、ふんわりとした湯気と相まってスローな気持ちよさ。
「喫茶店はART」。松之山温泉(新潟県)から近い「絵本と木の実の美術館」(連載18回「幻想と現実のはざま」(下)参照)の1階にある「Hachi Cafe」は、空間のなかに田島征三さんの作品が躍動する非日常の空間。
静寂のなか、紫やピンクのルピナスが、青い空の下で風に揺れていた。ここは歴史が古い店で、多くの登山者やバイク乗りのひとたちが、ほっとひと息をつく名所らしい。
「ジオラマがあるね」「ほんとだ」。店内には、廃駅となった十勝三股駅と旧国鉄の士幌線の鉄道模型が鎮座している。この店のご主人は、十勝三股駅がなくなった後、日本初の代行輸送のバス運転手を務めていたそうだ。店が、そもそも十勝三股駅の敷地内にあるのだった。かつて、林業で栄えた町に、民家は今二軒のみ。店主の奥様に、古い写真をいろいろ見せていただきながら、熱いコーヒーを飲む。「喫茶店は、風のなか、記憶を抱いている」。
「でも、街では喫茶店ってどんどん少なくなっていくよね」とコロさん。「このままでは絶滅しちゃう」とわたし。東京の街中では、お決まりのような無機質なチェーンのコーヒー店が増えていき、古き良き時代の喫茶店は少しずつ消えていく。喫茶店にお世話になってきたわたしたちにとって、とても寂しい現象だ。 試験勉強をしたり、原稿を書いたり、ぼんやり物思いにふけったり。若い頃の自分は、喫茶店に支えられて暮らしていた。店内にゆったりと流れるジャズやクラシック、お客さんたちの会話、お隣から流れてくるタバコの煙、すべてが適度な距離感をもって成立しており居心地がいい巣穴のようだった。今現在、旅先でこうしてコロさんと一服できる喫茶店がまだまだあることに感謝したいし、そして、喫茶店文化がいつまでも続いていくことを祈ってやまない。
昨年秋に、中之条駅を通りかかったとき、「あの店のカラシのきいた野菜サンドが食べたいな」とキャロリヤへと向かった。ところが、お店は閉まっていた。人の気配がなく、ただお店の前の植物たちが勢いよく繁茂していた。中之条の観光協会に電話したところ、お店の閉店を伝えられた。「でも、中之条観光ボランティアの会は、駅の待合室で健在です」とも。
そうなのだ。キャロリヤは、観光ボランティアの拠点として活躍していたのだった。喫茶店のもう一つの大事な顔。あの優しそうな店主のお父さんは、中之条町の名所や史跡案内だけでなく、観光客の荷物の無料預かりもしていたらしい。
今年に入って、再び中之条駅近辺に行く機会があったのだが、すでにキャロリヤは跡形もなくなってしまっていた。夢のあとみたいに、そこはきれいにさら地になっていた。
「残念だね」「うん、さみしいね」。コロさんと少し、しょんぼり。しかし、駅のすぐそばの喫茶店が健在。「カフェ フラット」。水色の外壁のこぎれいな外観だ。
店主の若い女性が、「いらっしゃいませ」とほほ笑む。カウンターには地元民らしい方がくつろぎ、テーブル席ではお仕事中の若者がカレーやカフェオレを注文。コロさんとわたしは、酸味の利いた熱いコーヒーを味わいながら、みずみずしい野菜がたっぷり挟まれたサンドイッチをゆっくりと食べた。
窓からは、春の到来を告げる、やわらかな陽のひかり。「喫茶店は不滅」。