駆け足のような夏だった。
「雨も多かったね」
「うん、あわただしかったし」
コンクリートの蒸し風呂の中で、息継ぎもままならないような酸欠状態の時間だったなあと振り返る。
「いつの間にかここまできちゃった」
コロさんが感慨深げにハンドルを握る。窓の外には、光できらめく穂をたたえた稲たち、そしてのびやかなセミの声。
「ここ」は、8月下旬、新潟県南魚沼市の小出地区。大湯温泉のさっぱりとした熱いお湯で都会の疲れを流した後、わたしたちは小千谷市を目指していた。はやる気持ちを抑えようとするものの、気分は「宿題も放り投げて遊びに行く夏休み終盤の子ども」そのものだった。
「おぢやまつり」。人口4万ほどの静かな美しい小千谷市で、8月下旬の3日間、市民皆が参加し作り上げる盛大な夏祭りである。ある年にひょんなことからこの祭りを知って以来、すっかりファンになってしまったわたしたちは、毎夏訪れるのが恒例となった。コロさんとわたしにとっての「花火大会」「夏祭り」は、このおぢやまつりなのだった(よそ者なのに……)。
小千谷市街に足を踏み入れると、すでに祭りの活気が溢れていた。町会の法被を羽織った子どもたちや若者が、にぎやかに道を闊歩している。宿泊先のビジネスホテルに車を置かせてもらった後、わたしたちはまずは最初の目的地へ。「錦鯉の里」。そう、ここ小千谷は錦鯉発祥の地なのだ。江戸時代後期から、200年の間、鯉たちはこの地で大事に育まれてきたという。祭り会場の商店街からほど近いこの施設では、泳ぐ宝石とも呼ばれる色鮮やかな錦鯉を間近で鑑賞することができる。 外の日本庭園の池を悠然と泳ぐ錦鯉たちだけではなく、館内には100匹余りの巨大な鯉たちが飼養される鑑賞池があり、その迫力は圧巻としか言いようがない。何度訪れても、時間を忘れて見入ってしまう。ここでは餌をあげることもできるので(鯉の健康に留意して制限も設けられています)、コロさんは張り切る。
「あーっ君は今食べたでしょ? ダメだよ、こっちの子にあげたんだから」
「あ、今度はあっちの子にあげよう!」
などなど、コロさんならではの鯉への気遣いがさく裂するのだった。
餌をあげながら歓声をあげる小さな子どもたちの元へ、1メートルを超える鯉たちの大群が水面から口を開けて餌をねだる。
「あなたたちよりも、この鯉はずっと年上なんだよ」
と、思わず教えてあげたくなる。ここの鯉たちは20歳を超える個体もいる。そして、「錦鯉の里」のHPにはこんな文言があった。
「錦鯉には『ボス』もいなければ『いじめ』もありません」
日が傾き始め、商店街をぶらりぶらりと歩くと、通りでは「万灯みこし」の出発準備が進んでいた。おぢやまつりでの重要なみどころ、それは各町内会や市民団体等の手作りの「からくり万灯」だ。おみこしだけではなく、トラック等にこのからくり万灯やお囃子隊が乗って夕闇のなか行なわれるパレードは、幻想的で異次元のように美しい。子どもたちの笛や太鼓、若者たちの威勢のよい掛け声が、夢のように響き渡る。
コロさんと、屋台や酒屋で「焼きそば」や「だし巻き卵」やチューハイを買い求め、人の流れる方向へと歩みを進める。
本日は祭りの2日目、みんなが楽しみにしている花火大会がある。信濃川のほとりで打ち上げられる花火はおよそ7000発。市民や地元企業の募金等で行われるのだ。
打ち上げの合間に、寄付者の名前がアナウンスされるのも、のんびりとした地元の花火といった風情で心が落ち着く。人びとの談笑する声や万灯の向こうに、小千谷の夜空に咲いては散る花火を眺めながら、なぜか胸がいっぱいになっていた。
翌日、快晴。東京にどうしても戻らなくてはいけないので、
「あ~、今年は牛さんのパレードが見れないんだね」
と、こぼした。
おぢやまつりの3日目の夕方には、「闘牛パレード」が催される。小千谷や旧山古志村では、古くから続く「牛の角突き」、「越後闘牛」と呼ばれる習俗がある。ここで闘う牛たちが、祭りの最終日、祭りの会場を練り歩くのだ。
トラックから降ろされ、最初は少しだけ興奮気味の牛たちも、パレードでは小さな子からお年寄りまで皆におとなしく撫でられていた。小学生が曳いている牛もいた。1トンを超える雄牛が、温順に子どもに従って歩いていた。
「牛さんは、昔は『食べ物』ではなくて、農耕や荷物運びを一緒に行ってくれる仲間で家族だったんだよ」
とコロさん。仕事上、農家さんたちと付き合いの長いコロさんは、牛と人の関係の変遷についてもいろいろ想うところがあるのだった。
「せっかくだから、小千谷や山古志の闘牛場があるあたりとか、山のほうにいってみようよ」
ということになり、出発。祭りの空気で満ちている小千谷の市街地から離れると、のどかな山間の風景が一気に広がる。
穏やかな風の流れだ。山道に差し掛かり、窓を開けると柔らかな虫の羽音や、鳥たちのさえずりが耳に飛び込んでくる。
闘牛場の近くの道を走っていた時、道端に大きなシルエット。
「あ、牛さん!」
ゆっくりと車を停める。巨大な黒い雄牛が、杭につながれて佇んでいた。
「モーーーー」
と鳴いたのだった。まるで、
「おとうさーん(飼い主さん)! なんだか変なひとたちが来ていますよー!!」
と知らせるかのように(少なくともわたしたちはそう感じた)。
「わたしたち、不審者かも!」
「牛さん、ごめんなさいー!」
わたしたちは、できるだけ牛を刺激しないように、ゆるゆるとその場を離れたのだった。
2004年10月23日夕方、最大震度7を記録した「新潟県中越大震災」が起きた。
68人の尊い人命が失われ、5000人近い負傷者があった。そして牛たちも140頭余りが牛舎の倒壊等で命を失った。
およそ1200頭の牛たちが取り残されたなか、飼い主さんたちは牛たちの世話に通い続け、やがてヘリコプターでの牛の空輸という前代未聞の牛の救出劇が展開される。ここの闘牛たちも、そんな歴史をしょっている。
越後の「牛の角突き」では、牛たちを最後まで闘わせることはしない。勝敗が付く前に、闘いの途中で、勢子と呼ばれる人たちが両牛を分けるのだという。
「わが子のように可愛がっている牛が、血を流したり負けて傷つく(牛の心が)のが嫌だから」というのが理由の1つであると、文献で読んだ。厳しい自然のなかで、支えあって暮らしてきた人と牛の絆は、当事者同士でないとわからない深さがあるのだと思う。
この地で代々、人びとが大事に大事に守り育んできた存在たちは、まぶしいまでに平和なのだった。
のんびりと山道を下り、再び小千谷市街地へ。祭りの最終日、あちらこちらから、賑やかなお囃子や笑い声がこだまする。
「さっき会ったあの牛さんも、今日のパレードに参加するんだろうね、きっと」
「きれいにブラシかけてもらってピカピカでやってくるのかな」
「また来年の夏ね~」
コロさんと、思わず手を振った。少しずつ遠くなる祭りの気配に、小千谷の町並みに。
牛に、錦鯉に、そして、今年の8月に。