時刻は18時を過ぎていた。
ちょっと何か飲み食いしたくなるこの時間帯。次の待ち合わせまでは一時間ほどあって、このスキマ時間を利用してソトノミしようか、いやこの寒い時期のソトノミストは冬眠中ということにしておこう、などと思いを巡らせていると、道ゆく先の吉野家に「吉呑み」の照明看板が光っているのが見えてくる。
17時から24時まで吉呑みタイムをやっている吉野家のこの店舗。この時間、店内の客はまばらだ。まあ空いている。
「吉呑み」とは吉野家の決まった店舗で夜の時間に限って出されるメニューのことで、軽く一杯飲んでから食事をして帰ってもらおうという趣旨のアルコールや一品料理が選べる時間帯だ。
「吉呑み」の照明看板はいつも気になっていたが、特別入るタイミングが見つからず吉呑みは未経験だった。
外は寒い。明日は都心にも雪が舞うとの予報に仕事上少々気が重かったのだが、交通機関には影響はないだろうとのことで少しは慰められたような気分でいた。
雪が降って、喜ぶ人とそうでない人とではどっちが多いのだろう。そんなことを考えながら吉野家の自動ドアをくぐると、若い女性店員から、あらしゃませーと声がかかる。
一番奥のカウンターに腰掛けて、吉呑みタイムのメニューに目を通す。
アルコール類もチェーン居酒屋ほどではないが種類は揃えてある。つまみも一杯ちょっとだけ飲もうかと思えば品揃えはこれで十分なのだろう。
熱燗とイカ焼きでも頼もうかと思案していると、後からやってきた女性客がカウンターの私のとなりにドカッと腰掛けるなり、店員に声をかけた。
「あ、すいませーん。黒ホッピーセット」
後から来た客に先を越された。しかもそれは女性の一人客であり、しかもとりあえず的に黒ホッピーセットの注文だ。なんだかいきなりヤラレタなって感じがした。
しかしなぜ私のとなりなのだろう? ほかにも席は空いているのに。いや、もしかするとカウンターの一番奥に座っている私が邪魔なのかもしれない。そうか、この女性客は頻繁にここに通っていて、いつもの自分の特等席に座っている見かけぬ私が邪魔なのだろう。
ちらと横目で隣に座ったその女を見る。
白いブラウスに赤ワイン色のカーディガン。明るいグレーのスカート。そのひざ下丈のスカートからのぞくがっちりとした足には黒いタイツ、そしてそのタイツの上には白い靴下を履いていて防寒対策は万全なようだ。さらには口に大きなマスクをしているその名も知らぬ女性客に、失礼ながら私は勝手に「乙女」と名付けた。
私は自分の注文は済ませたが、乙女の黒ホッピーその後の注文の方が気になっていた。いや、次の注文はないのかも知れない。つまみなしで黒ホッピーセットのみで終わりなのかも知れない。NOつまみ、NOライフ。
やがて黒ホッピーセットが乙女の前に並ぶやいなや、乙女は焼酎と氷の入ったジョッキに黒ホッピーをバババと注ぎ、ガガガとマドラーでかき混ぜて、マスクをアゴの下にずらしてデカい口を開けてホッピーをグビグビッとやった。
手強い。武者震いがした。この時点で、吉呑みは「男性の一人客」のものという私の偏見は壁に投げつけられてぶっ壊れた。
18時40分。私が熱燗とイカ焼きでチビチビやっていると、店内のテレビを見ながら飲んでいた乙女が動いた。
「すいませーん。中身ください」氷だけになったジョッキを指さして言った。
中身(焼酎のおかわり)が届けられると、半分ぐらい残っていた黒ホッピーを注ぎ素早くマドラーでガラガラかき混ぜてからグビグビ。
何か落ち着かないのか、しきりに首を回したり手のひらを頬や額にあてがったりしている乙女。ふと、マスクをアゴにホールドさせたままの乙女の横顔をうかがうと、かなりいい感じになってきたのかニッコリと弛んだ表情が見てとれる。そして時折、「ふん、ふ、ふん」と鼻歌のような音が聞こえてくる。
そして乙女が再び動いた。
「すいませ~ん。白ホッピーセットと豚皿の並っ」
まだ飲むんかーい。私は熱燗を飲み干し、イカ焼きに付いてきたが使わなかったマヨネーズをポケットに押し込んで会計を済ませた。