本日のソトノミストは、地下鉄日比谷線「神谷町」を降りた。
東京都港区虎ノ門5丁目にあるここ神谷町駅の周辺地図を見てみると、オフィスビルの建ち並ぶこのエリアには各国の大使館が多いことに気づく。そして寺院や学校、緑色に塗られた公園等も意外と多い。また、隣駅が霞が関であるため、国会議事堂をはじめ各省庁も見つかる。
麻布、赤坂、六本木、霞が関に虎ノ門。そんな地名を見つけるにつけ、確かにここは東京の中心地なのだろうという気持ちになってくる。そしてこの中心地の「ど真ん中」で、333メートルほど空に向かって伸びている、赤いタワーが今回の目的地なのだ。
神谷町の交差点を渡って街を歩いていく。歩くとまずは外国人と警察官の多さに驚く。
警察官が多いのは、大使館や省庁もあって要人の多い街であるからなのだろう。でも、外国人が多いのはそれだけではなくて東京タワーの観光客もいるからなんだと思う。
歩いて近づくにつれ、東京タワーをバックに記念撮影をする外国人観光客も見受けられてくる。 やがて大勢の人で賑わう東京タワーの足元に到着。
デカい。やはりデカい。がっちりとしたタワーの4本脚はいつ見てもデカい。はるか真上にあるアンテナの頂きを見上げる。
電波は目に見えないけれど、昭和34年の開業から電波を発信し続けてくれている東京タワー。建設当時の様子を調べてみると、その工期はとても短く、天候にも苦しめられたようだ。
実際の工事期間は、地鎮祭の執り行われた昭和32年6月29日から、昭和33年12月23日まで。昭和34年の開業は決定していたため1年半という短期間で完成された。動員延人員は22万人、総工費は当時の金額で30億円。
鳶(とび)職人たちは、幅30センチほどの足場をつたって作業していた。当時の貴重な写真などが1階総合インフォメーション奥のウェルカムラウンジ(入場無料)に展示してある。
高所で作業している風景写真を見ただけでお尻がムズムズしてくる。日本一高いジェットコースターの高さは97メートルらしいが、ソトノミストはたぶんそれすら乗れない。建物2階程度の足場をスタスタ歩いている鳶職人を見て、すげぇと思ってしまうソトノミストには想像を絶する現場なのだ。 着工当初20人いた現場の鳶職人は、工期と仕事量の事情から常時60人になる。タワー上部では6~7人で組み立て工事が行われた。
鳶職人の中には、さまざまな現場を転々とする熟練の「渡り職人」も従事しており、当時の鳶職の日給が500円であったのに対し、東京タワーでは750円だった。過酷な現場はハイリスク、ハイリターンというわけだ。
地上から高さ141メートル地点まではリベットでの組み立て、そこから先はボルト接合となっている。締めたボルトは溶接するのだが、真夏の鉄塔の温度は50度にもなり、鳶職たちを苦しめた。リベットは16万8000本、ボルトは4万5000本使用されている。
塔が高くなるにつれ強風にも苦しめられるが、風速15メートル(樹木の大枝を動かす程度)まで作業は行われた。建設中の昭和33年6月30日に、登っていた鳶職人が強風に煽られて転落死した。葬儀はふもとにある増上寺で営まれた。
また、使用された4千トンもの鋼材の中で、特別展望台より上で使用されている鉄材の原料には、朝鮮戦争後にスクラップとなった米軍の戦車が使われているらしい。これは当時、日本では良質な鋼材が手に入りにくかったことと、米国にとっては旧式戦車を戦地の隣国へ売却できるというメリットが合致したためである。
今回は展望台へは昇らない。高所と高級なもの恐怖症のソトノミスト。
東京タワーどらやき、東京タワーサブレ、東京タワーサイコロキャラメルなどなど。実にさまざまな土産物があるものだと関心して見ていると、「東京タワー緑茶」なるものを見つけて、それを購入。 おみやげ店のほかにも、各種イベント会場やカフェ、飲食店街、水族館などもあったのだが、気がついたらソトノミに良さそうな場所を求めて芝公園へと歩き出していた。
やがて到着した芝公園。さあ、増上寺と東京タワーを向こうに見ながらソトノミ開始!
キンミヤの「東京タワー緑茶割り」といこう。
いくら探してもライスチョコは見つからなかった。それもそのはず、ポン菓子をチョコでコーティングしたあの赤いパッケージは、いつの間にか姿を消してしまっていたのだ。
つい数時間前。コンビニやスーパーといろいろ探したあげく、アメ横の二木の菓子のベテラン店員さん(そのように見えた)に聞いてみると、「あれは今、メーカーで製造してないよ」と即答されてガクリと肩を落としたのだった。
その代役のライスチョコバーをかじりながらのソトノミ。このライスチョコバーに罪はないのだが、ただ、昔食べたあの素朴なおいしさをもう一度、東京タワーの前で食べてみたかった。
甘いライスチョコバーをかじった後の「東京タワー緑茶割り」は、ほろ苦く喉を流れていったのだった。
そうだ、初めてここに連れてきてもらったのは小学校3年の時だった。夏休みで母方の実家の親戚もいっしょだったんだ。みんな若かったなあ…。
懐かしさに頬が緩んだが、一人なので辺りを見回し、顔の緩みは元に戻しておいた。
小説『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の中で、リリー・フランキー氏は「東京をぐるぐると回す独楽の芯」としてタワーを形容されていたが、スカイツリーが出来てちょっとバランスは変わったかも知れないけれど、やはりこのタワーを中心に東京は回り続けるんだろうと思った。
ずいぶん久しぶりに、じっくりと東京タワーを見てそんなふうに思った。