ソトノミストがゆく。「巣鴨~猫又橋~大塚の散歩」<後編>


 <前編はこちら

 

 

 タクシードライバー御用達の「猫又橋際公衆便所」が後半のスタート地点。
 我々もトイレ休憩をはさんで再出発しよう。
 ここから大塚駅までは、谷端川の暗渠を歩こう。かつて流れていた川を上流へ向かって歩くのだ。

 ここには川の流路をイメージさせる小公園がある。

 

 

「あれ、川の流れの方向とは逆に坂が上ってますね。」
と、ジモトぶらぶら散歩マガジン「サンポー」のヤスノリ編集長が言う。
 確かにそう言われると妙だ。これだと高きから低きに流れるべき流路が逆になってしまう。
 調べてみると、猫又坂(新坂)が山を削って通された時期に盛土されたからなのだそうだ。以前はもっと低かったのだが、盛土して坂の勾配を緩くすることで路面電車を走りやすくしたという。
 そうです、ここには昭和46年まで、都電20系統(江戸川橋~須田町)が運行していたのです。
 もしまだ都電20系統が走っていたら、どんな光景が広がっているだろうか。

 江戸川橋から7000形の都電に乗車すると発車のベルがチンチンと鳴る。
 すると電車は音羽の谷を真っすぐ緩やかに上って行く。
 新しく建て替わった大塚警察署と、講談社の旧社屋と新本社ビルを左に見ながら、突き当たる護国寺を右折する。
 大塚仲町の山、氷川下町の谷と坂の上り下りが入れ替わって、ここからが猫又坂の山登りだ。電車は少し苦しそうなモーター音を上げ始めた。
 しばらく平坦な不忍通りを走行。都立小石川中等教育学校と文京グリーンコートを右に見てから上富士前を通過すると、今度は緩く下りながら右へ右へとカーブが続く。
 軋む車輪から伝わってくる音は、「なんと坂の多い街なのだろう」という7000形が漏らす愚痴にも聞こえる。
 右に見える文京区勤労福祉会館は、昔の都電新明町車庫だ。
 道坂下、道灌山下、団子坂下を過ぎると、辛かった坂道やカーブは減少し、電車は余裕の走りを見せながら不忍通りを池之端七軒町駅、今の池之端二丁目交差点を左の道へと進入する。
 ここは不忍池と上野公園の間を抜ける動物園通り。上野動物園モノレール(現在は運行休止中)の下、動物園駅で親子連れが次々と降りる。
 精養軒、五条天神社を左に見ながらうっそうと茂る緑の中を電車はゆったりと走り抜け、不忍池を浮かぶ蓮を右に眺めながらさらに進む。
 松坂屋、アブアブなど大小様々な商店の賑わう広小路。広々とした中央通りを優雅に走り続ける。
 ネオンが目立ってくる秋葉原のメインストリートはサブカルの聖地。末広町で降りた若者たちは電気街へと消えていった。
 そしてソトノミストは終点須田町ひとつ手前、万世橋で降りて「肉の万世ビル」3階でハンバーグを食べる。こうなったら1階でパーコー麺も食べるぞ。

 かくして2時間ちょっとの都電20系統の旅は終わるのだ。

 なおこの「猫又橋際公衆便所」は近く取り壊しになるらしい。交通量は多いが人通りが少なく、あまり利用されていないからだという。

 さあ、歩いて行こう。
 ちょっと川から離れて進むと突如として現れる絶壁。

 

 

 階段を台地上へと昇ると、向こうに池袋サンシャイン60を望むこの景色。

 

 

 ここは旧丸山町住宅。昭和30年代に建てられた当初は台地の上下に計8棟もある集合住宅だったという。
 台地上にあった昔の6棟は10年前に建て替えられ、現在はコーシャハイム千石という5階建てマンション2棟が建ち並んでいる。
 台地下にあった古い2棟は建替え前の解体工事の進行中だった。
 防護塀の隙間から覗いてみると、瓦礫の山の向こうにある解体中の建物には内部のタイルや階段などが露出しているところがあって、高度成長期のアイテムたちが半壊の姿を我々に見せてくれた。

 

 

 当時の4階建て住宅は、エレベーターこそ無かったものの確かに最新鋭の集合住宅だったのだろう。工事現場を見ているだけなのに、何か遺跡でも発掘しているような気分になってヤスノリ氏と写真を撮っていた。
 こうして古いものはキレイさっぱり無くなってしまって、来年あたりには5階建ての最新マンションがお目見えするのだろう。

 再び暗渠を歩きはじめる。

 

 

 

 

「火氣厳禁」看板。
 この「氣」は、レアな方だ。

 

 

 このアーチ型くぼみはなんだろう。

 

 

 暗渠沿いの小さな公園に立ち寄ると、スベリ面のないスベリ台があった。
 これは撤去予定とのこと。

 

 

 およそ囚人ごっこでしか使われそうにない砂場だ。

 くねくねと曲がる暗渠の道を歩き続けると、右手に巣鴨小学校、そのあとに東福寺の看板が現れる。川が流れていた時代の地図を見ると、東福寺の看板のところに橋がかかっていたのが判る。
 1691(元禄4)年からこの場所にあるという東福寺は昔から、中山道方向と巣鴨村辻町(現在の新大塚駅)に通じていたという。

 近所でお花屋さんを営んでいるという方にお話を伺うと、面白いことを教えてくれた。
「この石を見てごらん、墓石じゃあないよ、これは昔の道しるべだよ」

 

 

 なになに、ちょっと見にくいけど、
「右 大塚道」
「向 巣鴨監獄道」
「左 巣鴨庚申塚」と書いてありますね。

 

 

「監獄道って書いてあるでしょ。この先ずっと行くと東池袋サンシャインの所、昔は巣鴨刑務所があったんだよ。君たちのお爺さんなんかも世話になったんじゃないかな! アッハッハ!」
と冗談を交えながら教えてくれた。
 また、このお寺の隣には明治時代まで牧場があったそうで、それでここに牛供養の塔があるのだそう。
 それから、ここにあるカラタチ(みかんの原木)を歌った「からたちの花」は、北原白秋の作詞で、作曲は山田耕作。すぐそこの巣鴨教会にもカラタチがあって、この歌の記念碑があるのだということも教えてくれた。
 何かほかにもいろいろ教えていただいた気がするけど全部は覚えきれませんでした。とにかく面白いお話をありがとうございました!
 
 さて谷端川、暗渠のくねくね道はもう少し続く。
 大塚駅に近づくにつれ、小料理屋や料亭の看板なども見えてきてその雰囲気が変わってくる。昔からここが「大塚三業通り」と呼ばれてきた感じがしてくる。

 

 

 三業地は「料理屋」「芸者置屋」「待合」の営業が許可されたエリアことで、いわゆる花街のこと。
 新橋、浅草、神楽坂などの花街はよく知られているが、ここ大塚にも昭和はじめの最盛期には700人の芸者さんがいたのだという。
 栄華を誇った時代も今は昔ではあるのだが、新しいスタイルの店舗を構えるお店も出てきているようだ。新旧の入り乱れる今後の大塚三業通りに期待したい。

 

 

「大塚三業通り」の入り口に到着。そしてその脇にそびえるこの建物。
 この建物の屋上を見上げると、「大塚バッティングセンター、パチンコひょうたん島」のでっかい看板が設置されている。この建物の下ではパチンコ、上ではバッティングが楽しめるのだ。
 思いついたら手ぶらでやってきても気軽にバッティングを楽しめる「大塚バッティングセンター・ぴこたお」で、 今回はバッティングはしないでエアホッケーみたいのだけやって店を出た。
 ヤスノリ氏と本気の一本勝負で負けたが、こういうのは久々で楽しい。ATARIのPONGって書いてあるカッコいい機種だった。

 

 

 けっこう歩きましたね。お腹すいたナ……。
 ソトノミの前に軽く何か食べましょう。お昼時ですし。

 

 

というわけでJR大塚駅前、サンモール大塚商店街の入り口脇の富士そばで一杯いただく。私はこれ、「紅生姜入りちくわ天そば」に。

 

 

 元祖・富士そばライターの名嘉山直哉@l_f_nakayama氏によると、
「ちくわのデッドスペース(穴)を活用できるほか、紅生姜の辛さもほどよい塩梅になる」
とのこと。なるほど、フワシャキの食感もさることながら、ただ辛いだけの紅生姜ではなかったな。

 
 富士そば腹ごなし後のウォーキング。目指すは巣鴨公園。
 元陸軍の傷病兵の療養施設であったという巣鴨公園。それを今に伝える石碑もあり、本当はこの公園のベンチに腰掛けて乾杯したい。
 けれど、子どもたちがたくさん遊んでいてきっと変なおじさん扱いされるだろうし、それ以前に園内の注意書きに「飲酒禁止」の文言もあったので……公園の外側でソトノミ。

 

 

 今日は池袋西武のデパ地下で購入したソトノミ3点セット。

 ・ドリンク――ビールは「OGA BREWING」のインディアペールエール。白地に青の文字で、ドーンと「西武池袋本店 創業80周年」と書いてあります。まあ、今日は巣鴨~大塚の散歩だったので、次の駅の池袋を選んでみた。
栓を抜いて飲んだら、これがとっても美味! さわやかホップの風味のなかにフルーティーな酵母がほんわ~か香る旨さなのだ。
 ・おつまみ1――揚げパスタミックスは、カリッとしたしっかり食感に塩胡椒の効いたシンプルなテイスト。これは間違いない!
 ・おつまみ2――合鴨ジャーキーは、どんどん唾液があふれ出る不思議なおつまみ。昔あまりに旨すぎて人の分まで食べてしまいカミさんに怒られたのは私です。

 

 

 ぷはーっ!
 ヤスノリ編集長お疲れ様でした。ソトノミまでお付き合いいただき本当に有難うございました。
 またいつか、ソトノミ行きましょう!

 <前編はこちら
 
【参考図書】
 「地形を楽しむ-東京「暗渠」散歩」本田 創/洋泉社(2012年)
 「旧谷端川の橋の跡を探る」豊島区立郷土資料館友の会(1999年)
 「古地図・現代図で歩く―明治大正東京散歩」梅田 厚/人文社(2003年)


同じ連載記事