むかしむかしあるところに、椅子のような不思議な形の石が並んでいました。
今も仲良く並んでいるその石は、「ねこまた橋―親柱の袖石(そでいし)」と呼ばれていました。
本日のソトノミストはJR巣鴨駅を降りた。
なんと今回は、ジモトぶらぶら散歩マガジン「サンポー」のヤスノリ編集長にもご同行いただくこととなった。ありがたや。
冒頭の「猫又橋の袖石」は、今日の散歩の折り返し地点。
まず、巣鴨~猫又橋~大塚、そしてソトノミ。ちょうどV字を描くように散歩しよう。そんな計画である。
「猫又橋」は後記にて、まずはウォームアップ。巣鴨駅周辺をフラフラと散策してみる。
でも何のあても無く歩いていた訳ではなく、偶然ツイッターで見つけた昔の巣鴨の写真がどこで撮影されたものかと探してみる。
この写真、中井寛一@ichikawakon氏のツイートによりますと、『この写真は、petethepunk1氏が所蔵する、1951年(昭和26年)にアメリカと日本などで撮影されたカラー写真69枚の内の1枚です。撮影者はNorm Olsonです』とのことでした。
跨線橋から撮影されているようだったので、すぐに目星はついた。でも写真を拡大してよく見ると昔の写真は現在の様子とは異なる。
・山手線が茶色
・左岸に「ほねつぎ」と「旭旅館」の看板の文字が見える
・「ほねつぎ」看板の奥に煙突が見える
・柵がなく、右奥の崖っぷちに子ども二人がのんきに腰掛けている。さらに、左手前の崖にも子ども達が4人くらい列車を眺めている
とりあえず子どもたちの間では、崖から列車を眺めるのが流行っていたみたいだ。
「ほねつぎ」と「旭旅館」の看板を頼りに、何か当時の面影が残っていないか歩いて探してみよう。
昔は旭旅館だった辺りに『さかつうギャラリー』という看板がある。ガラス越しに中を覗いてみると、列車など様々な模型やジオラマが展示されていた。精巧なミニチュア模型に思わず見入っていると、お店の方が「どうぞ、いらっしゃいませ」と優しく声を掛けてくださった。
失礼して中に入ると、実に様々なミニチュア模型などがところ狭しと並んでいるではないか。これはマニアならずとも十分に楽しめる。
「何かお探しですか?」と、にこやかに店員さん。
事情を説明してみる。すると、昔の土地のことは詳しくないので向こうの古い不動産屋さで尋ねたらどうかと提案してくださった。
こちらは客でもないのに、実に紳士的な対応をしてくれた店員さんに感謝申し上げて店を出た。
午前早めの時間だったからなのか不動産屋さんは閉まっていたが、「旭旅館」も「ほねつぎ」にもその名残を見つけることはできなかった。
しかし、さすが「おばあちゃんの原宿」の異名をとる巣鴨というべきなのか、整骨院、鍼灸院、カイロプラクティック、指圧屋などなど、“健康系”の店が軒を連ねているのに驚いた。中には「枇杷葉温圧」という店もあった。
そんなお店たちを眺めて歩いていたら、さっきの古写真の撮影地点だろう場所を見つけた。
古写真と今の景気を比べながら、おー、ここだ。おー。もうちょい右ですかね。撮っておきましょう。
なんてことをヤスノリ氏とやっていると、跨線橋の下の猫に餌をあげている女性がいた。
地元の方かと思って、ボランティアで餌をあげているのだというその女性に昔の写真を見ていただいたが旭旅館などは知らないとのこと。そうですよね、なにせ昭和26年の写真ですものね。生まれる少し前ですものね。
すると、私は恵比寿の生まれでという昔話が始まったので、「写真を一枚」とカメラを向けると「写真はダメダメ」と顔を手で覆いながら逃げられてしまった。お茶目な方。
さて、散歩は続いてます。
ヤスノリ氏は、次々と面白い何かを掘り起こしているようでした。
愉快でためになるサンポーのヤスノリ氏の記事はこちらからどうぞ!
【LINK】「サンポー ジモトぶらぶらマガジン」
国道17号、白山通りを不忍通り方面へ歩くと、右に「千石本町通り商店街」の入り口が見つかる。ここを通って折り返し地点の「猫又橋」を目指す。
商店街を歩いているとヤスノリ氏が、ここに大原麗子の実家の和菓子屋があることを教えてくれた。
さすが編集長! 知りませんでした。
この辺りには古い建物や保護樹木となっているイチョウの巨木などがあるのに気づく。
明治のはじめに建築されたというこの建物。「伊勢五」は享保年代の創業。300年の歴史を持つ現役のお米屋さん。
そして店の入り口のこれ。「区」の旧字体、「區」を見つけると嬉しくなる。画数が多い方、レアな方の「區」だ。本郷区と小石川区が一緒になって文京区になる以前の小石川區だ。
さらに、ソトノミストが気になっていた隣の「十一屋酒店」。
どこか懐かしい佇まい。なんとも呑兵衛たちの喉を刺激してくれそうな店構え。今は動かなくなっているカップ酒の自販機もまた恰好のオブジェとなっている。
以前、夜に通過したとき、明かりの灯る店内に腰掛けている人が見えた。ここは角打ちができる感じがしていて大いに気になっていたのだ。
実はこの数日後の夜、角打ちをねらって「十一屋酒店」に突撃したソトノミスト。
ご常連さんたちに緊張しつつも入店。ソトノミストの不安をよそに気さくに話しかけてくれたご常連さん。乾杯までしていただいて有難かった。
ここは戦後の店だけど、この周りは奇跡的に空襲を免れたエリアなのだということ。お隣「伊勢五」さんは地主とのことで、この一角は広いお屋敷だったらしい。また、ここの旧町名「大原町」は、大原麗子とは関係はなさそうだということ。
いろいろと教えてくださった。
なるほど、東京大空襲を免れたからこそ古い建物なんかが残っているのですね。
さらに歩こう。「十一屋酒店」脇の細道をゆく。
クランクになっているこの細道もきっとお屋敷の一部だったのだろう。
未来型のポンプを発見。この井戸は、災害トイレの洗浄用水の井戸なんだって。
さらに未来型の水飲み場。この飲水栓は左右どちらのレバーを押しても給水されるので驚いた。この公園には2つの未来があった。
本当か。本当に通り抜け不可能なのか。
検証してやる。
本当か。嘘じゃないだろうな。
人に見せたくない何かを隠しているんじゃないのか。
執拗に訴えてくるな。
向こうは崖だな。
ローマ数字でⅢだと。なんの暗号だ。何か隠してるな。
むむ。狭い。
確かに狭い。しかも次第に細くなってやがる。
白いマンションのふもとが極細だ。無理だ、確かに車じゃ無理だ。
疑った俺が悪かった。
この極細の道を抜けて坂を下ると、折り返し地点の「猫又橋 親柱の袖石」が現れた。
そう、ここには暗渠となって姿を消した「谷端川(やばたがわ)」が流れていた。二基の袖石がそれを今に伝えてくれる。
そんな谷端川も、昔は出世魚みたいに地域によって呼び名が違っていたりして、小石川、礫川(れきせん)、千川、氷川とも呼ばれていたのだという。
こちらは「江戸名所図会」に描かれている猫又橋。のどかな田園風景の中には、流れる川と共に暮らす人々が描かれていた。
袖石の脇にある説明板を読むと、“猫又”なる妖怪に化かされた小坊主が川に落ちたという言い伝えからこの橋の名がついたとある。なお、この坂は猫又坂(新坂)で、さっき降りてきた極細の坂道が旧坂である。
山を削って作られた新坂は不忍通りの一部となっている。車で走るとちょっと狭く感じられるこの辺りは、将来的に道路拡張の計画もあるらしいと地域の方が教えてくれた。
この後ちょっと寄り道して、ヤスノリ編集長に最近見つけたポンプを見ていただいた。
袖石の脇の暗渠の道をすこし川下に歩くと現れる崖。その崖のふもとにポンプはある。
うっすら錆を纏ったグリーン。機能美を醸す見飽きないフォルム。
鋳鉄製の手押し式ポンプのボディには「川本式」の文字。
このポンプもきっと災害時には命をつなぐ水を我々に供給してくれることだろう。
さて、袖石の折り返し地点の後は、谷端川の暗渠を歩くことになる。
<後編に続く>
【参考図書】
「地形を楽しむ-東京「暗渠」散歩」本田 創/洋泉社(2012年)
「旧谷端川の橋の跡を探る」豊島区立郷土資料館友の会(1999年)
「古地図・現代図で歩く――明治大正東京散歩」梅田 厚/人文社(2003年)