今回はまず、この唐揚げそばをご覧いただきたい。
上に乗っているのが唐揚げとは思えないサイズ。どんぶりが小さいわけでなく、唐揚げがデカいのだ。
唐揚げだけテイクアウトして重さを量ってみたら170gもあった。からあげクンの倍ぐらいある。からあげクンは5個で85gだがこっちは1個で170gだから、からあげクン1個の10倍の重さがある。箸で持ち上げようとしたらズッシリと重さを感じた。腱鞘炎になりそうだ。
ここは我孫子駅のホーム。
駅のある我孫子市は千葉県の北西部にある。千葉県の形をかたどったマスコットキャラ「チーバくん」で言えばおおよそ鼻筋のあたりに位置する。
我孫子駅ホームにある立ちそば「弥生軒」は、唐揚げそば・うどんの人気店だ。
日曜日の今日は早起きして開店直前の6時55分に着いたのだが、もう開店を待つ先客が一人並んでいて驚いた。
店先には張り紙がしてあった。
かわいらしい魚のイラストとともに、
「弥生軒は ぼくが働らいていた お店です 山下清」と書いてある。
今日は我孫子駅の南にある手賀沼の辺りを歩いてみようと思う。
ざっと東西に横長く7㎞ほどに延びている手賀沼畔を、清も歩いたであろうか。
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6年前。亡くなった義父の書斎を整理していた折、「どれでも好きなものを」と頂戴した本の中に『山下清・日本の風物(式場隆三郎 編)』という古い本があった。
山下清は、放浪の旅を繰り返して「裸の大将」と親しまれた画家だ。『花火』、『桜島』など、繊細かつ鮮やかな色彩の貼り絵は特に人気で、「日本のゴッホ」とも呼ばれた。
専用箱は背ヤケしていたが、中の本は美しいものだった。全119頁のうち最初の24頁までカラーの本は、山下清の作品が1頁につき1作品、制作の年月やサイズ、そして解説が載せられている。清を深く知る近親者によって書かれたようなその解説は見事だった。
編集にあたった式場隆三郎は精神病理学の医学博士だったそうだ。ゴッホの研究者としての著作も多い式場隆三郎は、山下清の才能に注目し彼を支えていった。そのやり取りの中で、清の作品の幅は広がり精度は磨かれていくこととなる。
1956年3月に開かれた東京大丸での個展を皮切りに、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国の百貨店を行脚した山下清の展覧会は百二十数回にもおよび、数百万人の観客を動員したという。
高度経済成長に突入していく日本の人気者となった山下清。
新聞、雑誌で取り上げられ、テレビ、ラジオに出演しては彼の風貌、そしてユニークな言動は広く知れ渡ることになり社会現象になった。山下清をモデルにした映画、舞台、テレビドラマも数多く世に送り出されてきた。
山下清を調べる中で、陶器に絵付けをする清の写真や、サインを求めて清の前に並ぶ人々の写真、甥っ子を抱っこする清の写真なども見たのだが、それまで抱いていた山下清のイメージとはどこか違う感じがした。
そして我孫子の弥生軒で働いていたことを知り、そこに行ってみたくなった。本当の山下清を知りたくなったし、清が見た風景を見てみたくなったのだ。
テレビドラマ『裸の大将放浪記』は、1980年から放映された。山下清役は芦谷雁之助(本名・西部清)で、これは私も子ども時代によく見ていた。
ダ・カーポの歌う『野に咲く花のように』が番組の主題歌だった。ほのぼのとするあの曲と、清が放浪するロケ地の風景がよく似合っていた。作曲は小林亜星だ。
20年以上前になるが、六本木の辺りを営業回りしていた時に小林亜星を見かけたことがある。体格の良い人物だったから裏路地で見かけてすぐに判った。あの時一人俯きながら歩いていたあの作曲家の頭の中にはどんなメロディーが流れていたのだろう。
『日立の樹(この木なんの木)』、『チェルシーの唄(明治製菓)』、『あなたと、コンビに、ファミリーマート』など数多くのCMソングや、テレビアニメ主題歌などの楽曲の制作、『寺内貫太郎一家』といったテレビドラマやクイズ番組、バラエティ番組の出演などなど、実にマルチな活動をしていた人気タレントでもあった。
変わりどころでは、戦隊ヒーローもの『太陽戦隊サンバルカン』のバルパンサー(豹朝夫)の父親・豹朝太郎として出演している。実はバルパンサー扮する元俳優の小林朝夫は、小林亜星の実の息子だったのだ!
ちょっと山下清から話が反れてしまったが、私の記憶の中で『裸の大将放浪記』と『野に咲く花のように』はセットになっている。そして、芦谷雁之助と小林亜星もセットになってしまっている。
しかし、テレビドラマ『裸の大将放浪記』などは、フィクションであって実際の山下清とは違う部分も描かれており、誤解を生む表現もあったようだ。
清の甥っ子にあたる山下浩は、著書『家族が語る山下清』の中でこう書いている。
東宝映画『裸の大将』(1958年)の試写会を見た叔父は、自分と小林桂樹さんが演じる「山下清」がいかに違うかを、克明に日記に書いています。芝居とは理解していても、やはりおもしろおかしく演じられることには、抵抗があったようです。(中略)小林桂樹さんの誇張した話し方のまねをする人がいて、
「ぼ、ぼ、ぼくは、わからないんだなぁー」
「お、おにぎりをたべたいんだなぁー」
自分でコンプレックスを感じている部分を誇張された叔父はあまり快く思っていませんでした。
(山下浩『家族が語る山下清』並木書房、2000年、117頁)
また、ドラマの中では放浪先で世話になった人に向けて、貼り絵の作品を残して去ってゆくパターンが多かったと思うが、実際にそういうことはなかったという。
驚いたことに、清は旅先で気に入った風景を眺め続けて、自分の脳裏に鮮明に焼きつけてしまって、それから家に帰って制作を始めていたというのだ。そして簡単な下絵をして、端から淡々と色紙を貼り合わせていく地道な作業を何日も続けて貼り絵を完成させてしまう。清の驚異的な記憶力と集中力がその制作を支えていたのだ。
放浪癖のある清であったが、1940年11月から始まった一度目の放浪では、千葉県内でいくつかの職を転々としていたそうだ。
その中のひとつに「弥生軒」という弁当屋があった。我孫子駅で販売する駅弁を作っていた弥生軒は毎日がお祭りのような忙しさだったという。木箱に駅弁を詰めて肩から提げて列車の窓越しに販売していた時代だ。
しかし時の流れと共に列車は高速化しダイヤも変化する。停車駅は減らされ停車時間も短縮される。我孫子駅を通っていた常磐線の長距離列車はなくなり、列車の窓は固定されていく傾向に。次第に弥生軒の駅弁の需要は落ちていった。
残念なことに弁当屋としての弥生軒はなくなってしまったが、冒頭の通り、立ちそば「弥生軒」としてそのブランドはしっかりと我孫子駅に根付いている。
清は、販売や計算などはできなかったが、食材を包丁で刻む作業などは非常に細かく丁寧な仕事をしたという。
弥生軒の初代社長は職を求めてきた清を快く受け入れたそうだ。清は弁当のラベル貼りや結束作業などをメインに5年間住み込みで働いていた。しかし突然にいなくなり、ちょうど半年後にまた帰ってくる。このサイクルを5年間繰り返したのだ!
こうして清の放浪癖は揺るぎのないものとなったのだ。
やはり初回は社長をはじめ皆が心配して捜索もしたそうだが、ある日突然「ただいま」と帰ってくる清。
「みんな心配してたのに何がただいまだ!」と社長が怒鳴ると、清は、
「帰って来たら、ただいまだ」と、どこ吹く風だったという。
◆
さて、ぐるっと歩き回って我孫子駅まで戻ってきた。3時間ほど歩いたら首筋に汗がにじんでいた。
改札手前の通路に「懐かしの成田線 写真展」という写真展示があった。
SLのモノクロ写真などがある。成田線は今年で開業120周年とのことだ。
この写真を見ていたらソトノミするのを思い出した。
今朝、我孫子駅に着いてすぐ唐揚げそばを食べて、そのときに自前のタッパに唐揚げだけテイクアウトしておいたのだ。それをアテに飲まなければ。
しかしテイクアウトなんて他にする人いないだろうと思ったら、取り出した自分の弁当箱に唐揚げを2個入れてもらって持ち帰るお客がいた!
唐揚げは大人気だった。
ほとんどのお客が唐揚げそばで、ダブル乗せの猛者もいた。女性の客もいたし確かに皆に愛されているのがよく判った。
ここまで大きな唐揚げだしフライヤーで揚げるだけでも重労働だと思う。しかしそれでも愛されるものを作り続ける。それこそが愛だと思う。我孫子愛。160円で愛のある唐揚げが追加トッピングできる。
始めましょう!
唐揚げだから一番好きなタカラ缶チューハイをコンビニで購入。油分をさっぱり方面と導いてくれるレモンの不思議パワーを信じなさい。
しかし、デカい。
割りばしに刺してみたらズシッと重くて、見た目がアメリカンドッグになった。
四の五の言わずにいきなりかぶりつく! ザクサクッザクッ! 歯ごたえあり。もぐもぐ。う、うまい。嚙むごとにジュワッと、いい味が染み出してくる。すかさずレモンの缶チューハイで流す。プハー!
これを繰り返すが、唐揚げ、なかなか減らない。
もぐもぐ食べ進んで、最後の方で思いっきりガブっといったら割りばしの先端で前歯が折れそうになった。慌てるなソトノミスト。
いやー、大満足でした。ジャンボ唐揚げ。
ソトノミスト的には一缶でちょうど唐揚げ一個食べきる感じでした。まさにジャストサイズ。ちょうどいいデカさ。
なぜか頭の中に『野に咲く花のように』のメロディーが流れてきた。
なんか我孫子に住みたくなった。
山下清、1922(大正11)年3月10日生まれ。
戦前、戦後を生きた清の最初の放浪は「徴兵を逃れたい」という気持ちを素直に行動に移したものだった。それは彼の生き方そのものだったのかも知れない。自分の気持ちに素直に、できれば世俗的なところからは距離を置いて生きたかったのだろう。
清は大好きだった夏の花火大会を見ながら、
「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」と家族に語っていたという。
1971(昭和46)年に49歳の若さで亡くなった山下清。
もうすぐ生誕100周年なんだな。