最高の旅というのは思いがけない学びに溢れているものだ。偶然だろうが意図的だろうが(あるいはちょっとしたアクシデントも起こりうる)「普通」の状態から解放された自分が出合う予想外の楽しい学び。こうした学び、旅先での出合いは、あらゆる形で旅人のもとへやってくる。
県境のレストランで、清冽な川の水に思わず手を伸ばしたときや雨宿りの最中に。あるいは新鮮なルバーブの、鮮やかな赤色や甘酸っぱい味わいのなかに、学びは存在しうる。
初めてルバーブという野菜を知ったのはオーガニックカフェで働いていたころ。
私はここで食料の調達と食事の準備をともに愛することを学んだ。この店にたどりつくまでの8年間、私は「きちんと美味しい」食事を求めていろんなお店で働いてきた。
あちこちで数か月、ときに数年を過ごしてきたのだが、美味しい料理に欠かせないのは、やっぱり美味しい食材だろう(それと同じくらい作り手の人柄も大切だと私は思う)。
その頃、私は東京にあるオーガニックスイーツカフェにいた。
オーガニック、国産、フェアトレードされた商品と素材にこだわり、ひとつひとつ手作りしたお菓子が自慢の街の人気店だった。
心落ち着くコーヒーとオーブンで焼き上がりを待つお菓子の香りが店を満たしている。人のために小麦粉をこね、旬の果物を煮詰める。季節と食べるものがきちんと結びついている。感情に、記憶に、あるいは心の奥の柔らかい場所に、触れられた、と思うようなお菓子の数々に私は興奮してしまった。
「きちんと美味しい」とはつまりそれで、こういう食べものにはなかなか出合えない。美味しいだけのものならたくさんあるのに。私はこの店の、甘さと幸せにうっとりして、働かせてほしいと頼んだのだった。
本日、店は定休日。
女の子ばかりの車内、頼りないカーナビ、実りの季節に導かれたのんびりとしたドライブ。都会からのつかの間の逃避行。だけど目的ははっきりしている。東京から長野県安曇野市にある川端農園へ。これは生産者を訪ねる旅だ。
事前の予定通りに、すべての畑をまわるには一日では足りなかった。それでも収穫は充分だった。
思い出作りも、出会った人も、学んだ事も、分かち合えたから。駐車場と思われるスペースに車を止めて、私たちは外に出た。目的の場所にたどり着いたとき、たちまち何か素晴らしいことに巡り会ったと気付いた。
たとえば、常に漂う新鮮な空気、植物の香り、水の流れる音、気ままにうろつく昆虫。そして、ひらけた空。視界に私たちのほかに誰もいないことなどがないまぜになり、この畑がまぎれもない地上の一部なのだという「真実」を教えてくれる。
初夏の心地よい風に包まれた広大なルバーブ畑に踏み入れると、どこからともなく現れたお爺さんが私たちを出迎えてくれた。これが私にとって初めてのルバーブとの出合いだった。
「美人になれる野菜」の異名をもつルバーブはヨーロッパではとてもポピュラーな野菜だ。シベリア原産のふきの仲間で、茎をジャムにするときれいな赤色になる。寒い国が原産だから涼しい土地でないと育たない。
私たちは昼間の明るい日差しを浴びて、地面を覆いつくさんばかりの青々とした葉を丁寧にめくり、血のように赤い茎を観察し、学びつつしばしば試食して、摘み取り、手のひらを真っ赤に染めた。
受けとった両手いっぱいのルバーブを店に持ち帰り、たっぷりの水で洗い、おなじ大きさに切り揃える。砂糖と煮詰めてジャムにして小瓶に入れて保存する。これでしばらくのあいだルバーブのジャムをいろんな料理と一緒に楽しむことができる。ヨーグルトやグラノーラに添えたり、香ばしくて甘酸っぱいタルトにしてみたり。香りがいいから、そのままサラダにして食べてもいい。
このときほど料理をすることに喜びを覚えたことはなかったし、食べること、食材そのものからこれほど大地に繋がっている実感を抱いたこともなかった。日々の楽しみと毎日のよりどころが、季節の食べものによってもたらされる。
膨大なレシピから、どういうわけか新しい一皿が生まれる。空腹の食いしん坊が食事に求める楽しみは、味わいだけではない。色、匂い、食感、音、盛りつけ。これらすべてが私を虜にするのだ。
知っている人の食べものを買うと、だれだれの畑でとれたものだという景色やイメージも浮かんでくる。頭のすっきりするような美味しさに出合う。
食べる、というのは体全体を使った楽しみなのだ。その夏、私は甘酸っぱいルバーブを朝食だけでなく、おやつにも、一日中、食事のたびに味わった。自分で収穫し自ら洗ったルバーブ、気前の良い大地から送られたルバーブを。
大地が夏支度をはじめる頃、この季節にしか出合えない野菜が姿をみせる。個人的に夏は苦手だけれど、食べものとなると別。味わい深く、栄養価が高く、装飾的かつ愛おしく、その魅力的な容姿で辛く厳しい季節を絶えぬく楽しみを提供してくれる素晴らしい夏野菜たち!
スーパーの棚にならぶ黄色や白や緑の塊を通りすぎるなんてできない。そこには新鮮で純粋な農産物の姿がある。自然の恩恵に浴する食材の自由な姿が。そしてその形状はじつにさまざまだ。
たとえばビーツの息をのむ美しい赤色。とはいえ華麗な内面とは裏腹に、見た目はけっこう不細工だ。じゃがいもみたいにごつごつしていて若干グロテスク。食材としてはとても優秀だ。
ビーツといえばロシアのボルシチなどの煮込み料理に使うのが一般的だけど、私は煮てスライスにしたものが好き。私が住んでいたニュージーランドでは、缶詰のビートルート(Beetroot)が有名で、煮てスライスにしたビーツを缶詰に保存したものがどこのスーパーマーケットにも売っている。ハンバーガーに挟んでもいいし、サラダにしてもいい。ステーキに添えれば、鮮やかな付けあわせの野菜にもなるから、忙しい日の食卓に重宝する。
ビーツだけじゃない。夏は、派手なもの、プラスチックみたいなもの、小粒なものから大きなものまで、野菜たちが我こそと個性的なフォルムを自慢げに披露している。
でこぼこしたゴーヤとかピンと張りつめたパプリカとかボールから茎を生やしたコールラビなどなど。どれも畑からやってきたとは思えない。
そう、あの色と形になるには、なにか特別な意志が働いているのではないか、なんて気にさせられる。夏には、どこかボーっとさせるような何かがありそうだし、ルバーブとかビーツとかコリンキーだとか、あの不可思議な形状には、なんとなく未知の気配がただよう。だって膨張した木の実みたいなコリンキーが皮ごと生のまま食べられるなんて驚きだ。
詩人の金子みすずは思慮深いサクランボを生みだした。
「私はまだ青い」サクランボは「行儀のわるい鳥の子」につつかれてはたまらないと葉の裏に隠れる。そこでは「鳥も見ないが、お日さまも、みつけないから、染め残す」のだ。
やがて子どもがやってきて、サクランボはまた考える。
「待てよ子供は二人いる、それに私はただ一つ」
「けんかさせてはなるまいぞ、落ちない事が親切だ」
この詩の醍醐味は、何気ない空間に物語を見出し、思いがけなく新しい発見をすること。ここにはサクランボの子の無垢な心がある。
金子みすずの書いたサクランボは、いたずらがきみたいに気持ちがほどけていて、楽しげで、いいなあ、と思う。
だいたい私は「もののかたち」というものに惹かれていて、小さくて(大きくてもいい)、色がきれいで、触り心地がおもしろい野菜は完璧だと信じている。
野菜たちの、土や葉のうしろに隠れて、どこか照れくさそうなところも、かわいいなあ、と思う。